犬や猫を飼っていても平気で豚や牛を食べられる?

犬や猫を飼っていても平気で豚や牛を食べられる?

sippo(シッポ): 朝日新聞社による “動物愛護” の取り組み

 

家人が新聞をとっているので、目にすることがある。朝日新聞という新聞 である。わたしはこの新聞は聖教新聞や顕正新聞と同列の“宗教新聞” と思っている。

 

その朝日に先日、一面の片隅に右のような広告があった。 

   

       

              “sippo” というロゴ  →

   このロゴは以前にも目にしたことがあり、ペット関連のものだなとは思っていた。それにしても、無理のあるローマ字で、ひっかかるものがあった。

 

今回あらためてよくみると、以下のように書いてある。

   

 さらによく見ると、最小レベルの活字で “by The Asahi Shimbun” と書いてあるではないか。

 

 

 

 なんと購読者数が激減している朝日新聞が生き残りのためにいよいよペットまで取りこもうとしているかのようだ。

 

 

 

 

 

“sippo” をググってみると、以下のようにヒットした。

   

「sippo (シッポ)は朝日新聞が運営する犬・猫などのペットの情報サイト」 だそうだ。

「朝日新聞社では、(2015年)3月から本紙朝刊で2カ月に一度、ペット面「ペットとともに」の掲載を始めるなど、グループ各社の媒体でペットに関する報道に力を入れている。一般社団法人ペットフード協会によれば、日本で飼われている犬猫の数は、2014年時点の推計で、約2030万匹。これは総務省が推計した2015年4月1日時点の15歳未満の子どもの数、約1617万人を大きく超えている。同社は「いまやペットは『家族』『パートナー』『子ども』とも言うべき存在で、ペット関連の情報のニーズが高まっている」とペットの報道に注力する背景を説明している。」 https://japan.cnet.com/article/35066631/

 

購読者激減の朝日新聞が生き残りのためにペットブームに目をつけたわけだ。まあ、それはそれでかまわないだろう。

しかし、わたしがまず注目したのは 「sippo (シッポ)」 というネーミングである。たしかに犬や猫には尻尾がある。しかし、ほとんどの動物には尻尾があるのだ。人間など尻尾の無い方が例外なのである。魚、鳥はもちろんのこと、ほとんどの哺乳類、すべての爬虫類、ほとんどの両生類には尻尾がある。

 

  

いかがであろうか? 「シッポ」 が客観的にどういうものを指すか、その意味範囲をご把握いただけたであろうか?

   

逆に尻尾の無い方を数え上げた方が早いくらいだ。人間、チンパンジー、ゴリラ、カエル、コアラ、モルモット、コウモリ、キウイ、カニなどである。

どうやら朝日新聞社は、少なくとも潜在的には “尻尾のある生き物” を対象としているようだ。

「sippo (シッポ)」 という名称を選んだいじょうは、とうぜん犬と猫の範囲を大きく “はみ出す” ことになるが、これはもちろん当の情報サイトの運営方針に織り込み済みの意図であるにちがいない。 

しかし、これはある意味で非常に大胆なネーミングである。ペットに限定せず、動物一般に対する愛護の精神を鼓吹し、朝日新聞社のお家芸である “生命尊重” の高遠な理想を掲げ始めたかのような観がある。

この「sippo (シッポ)」 というネーミングとロゴについては、当然朝日新聞社内部でも何カ月もかけていろいろ議論を重ねて検討したはずだ。他の候補もいくつかあっただろう。おそらくこの「sippo (シッポ)」 への反対論もあったと思われる。

まず、なぜ “shippo” ではないのか? “シ” は、日本の普通のローマ字表記では “shi” のはずだ。 “アサヒ シンブン” みずから “Asahi Shimbun” と名乗っているではないか?

おそらく本当は “shippo” としたかったのであろう。しかし、使えなかったのだろうとわたしは推測する。

 

リサーチすると、運輸・配送(shipping)業界の或る会社が、右のムーミンのようなキャラクターとともにすでに “shippo” というこの名称を社名として使っていることがわかる。朝日新聞社の “sippo” の2年前である。

このため、朝日新聞社は “仕方なく” “sippo”,つまり、“スィッポ” でスタートせざるをえなかったのであろう。

こんな無理をしてまで、 “尻尾” に執着する必要があったのだろうかと問いたくなる。たしかに 「犬・猫などのペットの情報サイトです。」 とは言っている。しかし、“尻尾” を意味する 「sippo (シッポ)」 を当のウェブサイトの名称として使い続けるかぎり、“尻尾”のある動物を対象としている印象をいつまでも与え続ける運命にある。これは避けようがない。

「それは誤解です、ちゃんと “犬・猫などのペットの情報サイトです” と断っています」 などと言ってもダメである。

 文頭に挙げた “sippo” の広告が載った朝刊と同日の夕刊にはたまたま以下の記事があった。“大風呂敷” が違法となりうる興味深いケースを朝日新聞じしんが報道している。

犬と猫は “シッポ” をもつ動物種全体のうち 「3割以下」 よりもはるかに小さな比率を占める。

TSUTAYA は故意か過失か、「見放題」 と言った。朝日新聞社は 「シッポ」 と言った。「見放題」 と言えば、そこにあるもの全部が対象であるはずだ。「シッポ」 と言えば、尻尾のある動物全部が対象であるはずだ。

 

ぜひ尻尾のある動物一般を対象にして頂きたいし、そう名乗るいじょうは、そうする責任も当然あるはずだ。動物好きのわたしとしては、むしろ大歓迎である。TSUTAYA のようなセコいことをせず、対象範囲をそのウェブサイトの名称のとおり、堂々と 「シッポ」 のあるものにしていればいいだけのことだ。広げた “風呂敷” を言い訳しながらコソコソ畳まず、広げた時の範囲のままにしていればいいのだ。

 たとえば、この 「sippo (シッポ)」 というウェブサイトではさまざまなテーマを扱っている。

「動物実験を廃止」  「殺処分ゼロ」めざして」  といった “動物の権利擁護” のテーマも多い。

 

 

「sippo (シッポ)」 のウェブサイトで、

「殺処分ゼロをめざして ・・・ 」

            大いにけっこうではないか。

 

 

 

 

 

 猫と同じように、豚にも “シッポ” はある。

 

猫の 「殺処分ゼロをめざす」・・・大歓迎である。 しかし、同じように “シッポ” のある 豚の 「殺処分ゼロをめざす」 記事 は皆無のようだ。なぜだ?

 

 犬と同じように、牛にも “シッポ” はあるぞ。

 

  犬の 「殺処分ゼロ」・・・大歓迎である。同じように “シッポ” のある牛の 「殺処分ゼロ」 については、朝日新聞社の 「sippo シッポ」 は沈黙か?

 

 「ペットと家畜は違うだろっ!」 というヒステリックな声が聞こえてくる。

お言葉ではあるが、「ペット」 と 「家畜」 の区別は、一部の人間の勝手な都合にすぎない。そもそも 「ペット」 は 「家畜」 である。“愛玩用の家畜” である。

 

 

“一部の人間” の勝手な都合にすぎない。

 

“生命に対する畏敬の念が欠落した人間” の都合にすぎない。

  “自分は手を汚さず、人に殺させて食べるだけの人間” の都合にすぎない。

 

“動物好き” を自認している多くの猫や犬のペットオーナーのうち、肉食 をしているひとたちは “動物が好き” というよりも 単に “動物の肉が好き” なだけである。

ちなみに韓国ではふつうの犬を 「ケー」 と呼び、食用の犬を 「ヌロンイ」 と呼び、区別しているそうだ。

「ヌロンイ」 はもともと黄色い犬種だったそうだが、ネットで調べると、さまざまな犬種が出てくる。

 

殺されることを知ってか、怯えた表情、もしくはすっかり諦めきった表情である。

 

つまり、今日では単に 「食用にする犬」 を 「ヌロンイ」 と呼んで、ペットの犬(ケー)と区別して食べているのである。 韓国人も 「ケー(犬)」 としてはさすがに食べられないので、別の名前をつけているのだ。「ペット」 でなくて、「家畜」 だと言うのと同じである。「食用」 として勝手に分類することによって “正当化” しているだけである。「ペットと家畜は違うだろっ!」 と言うひとと同じ思考回路である。そもそもペットは家畜である。

 

毎日のように肉を食べながら犬や猫を可愛がるという偽善的な社会的慣習に耳の付け根まで浸(つか)って、疑問に思うことがないだけである。

 

“肉食生活” をしているペットオーナーたちは、セックススレイブ(性奴隷)を寵愛しながら、一般の奴隷を死ぬほどに酷使していた古代の放恣な王族と変わらないのである。

犬・猫 etc. (ペット) = 性奴隷  (カワイイ!)

牛・豚 etc. (食用)  =  奴隷    (美味しい!)

 

 

自分はこんなにも奴隷(動物)を大事にしているという “自己欺瞞の生活” を送っているのである。

 

そういったひとたちは概していわゆるベジタリアンが嫌いである。自分の価値観に潜むような “不整合” をクリアしている連中のように思えて面白くないのである。

そして、「牛や豚は確かに “命あるもの” だけれど、お米や野菜だって “生命” じゃないか!牛や豚を食べないと言うんなら、お米や野菜も食べなきゃいいじゃないか!」 という “殺し文句” を投げつけて、憂さをはらす。

これによって、自分の現在の “肉食生活” が正当化されると思っているのである。ベジタリアンも、肉食派の自分も “命あるもの” を食べているんだからけっきょく同じなんだと。これで納得する人間は相当に幼稚ではなかろうか。

まずは、犬や猫を飼っている人たちから、“肉食生活” を見直す必要があるのかもしれない。

 あなたがどのように動物を扱うかは、そのままあなたの人間観の反映である。他者を自分の欲望を満たすための手段と見るか、それとも、痛みも愛も感じる心を持った自分と対等の存在と見るかの違いがそのまま反映するのだ。

 

 人間に食べられる韓国の犬たち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、 話を 「sippo (シッポ)」 に戻そう。

 

朝日新聞社は “立派” である。2015年のウェブサイト 「sippo (シッポ)」 のスタートにより、社運をかけて(?) “動物愛護運動” に取り組む姿勢を打ち出したのだ。このウェブサイトの名称じたいが、客観的にも、常識的にも犬や猫をはるかに越えた範囲を意味していることは明白である。その範囲(シッポを持つ生き物) にはとうぜん、牛や豚といった家畜が含まれることは言うまでもない。

 

朝日新聞社には、犬や猫だけでなく、牛や豚といった人間の管理下にある動物たちの過酷で凄惨な生活や生涯にも光を当て、ペットに限定しない動物の権利の擁護、動物愛護運動の推進のためにぜひ尽力して頂きたい。

まずは、「犬や猫の殺処分ゼロ」 だけでなく、同じ 「シッポ」 のある生き物である 「牛や豚の殺処分ゼロ」 のための運動、啓蒙活動もおこなって頂きたい。

 

これをしなければ、“TSUTAYA の大風呂敷” と同じである。

 

 

朝日 sippo (2) 「殺生不可避論のトリック」: 生きることは 「殺生」 か?

 

 

コメント

  1. ナオ より:

    まさに!

    その通り!動物愛護と言うのであれば、徹底して貰いたい。知り合いにペットのブタを飼っている方が居て、ペットのブタの傍らでブタの生姜焼を食べてるのには参った。。。自分はそれを見て吐き気がした。ベジタリアンと言えば必ず植物も同じ命だから植物を食べるのもおかしいと言われる。だが、植物は種の存続であり動物は個体の存続。そこが圧倒的な違い。もう一つ。自分が言うのは、植物と動物を同じと言うのであればお宅のペット。病院に連れて行かない事だ。もしくは、お宅の花壇の薔薇。病気になったら病院に連れて行こうね。

  2. ザウルス より:

    ナオ さま

    このテーマは不人気を覚悟で書きました。自分の食生活を大きく変えざをえなくなるような結論に対しては、読まなかったことにして素通りするというのが大方の反応でしょう。

    「ザウルスでござる」 にときどきやってくるレギュラーの読者でも機嫌を損ねる人がかなりいるはずです。

    「まさにその通り」 と言えるナオさまのような自脳層は稀(まれ)だと思います。

    単純な前提から論理を推し進めた結果がこの記事です。朝日新聞社のsippo シッポのデスクもいずれこれを目にすることでしょう。どんな言いわけをするのかぜひ聞いてみたいものです。

  3. ji より:

    食肉洗脳

    食肉については、既に習慣化し当然のように食している社会なので、その洗脳を解くのは大きな力が必要になりますよね。

    私も、気にせずに食べている口ですが、こういった記事は、心が痛みます。

    もちろん、私自身も食肉の文化に対し洗脳をされているという事です。

    洗脳を解くのは、難しい事ですよね。

    自身に不都合が無いと感じていて、更に、洗脳されている自覚もない。

    脱洗脳自体を洗脳と感じ、それを拒絶する。

    応援しています!

  4. ザウルス より:

    ji さま

    たしかにわれわれ資本主義社会に暮らす人間は多かれ少なかれ資本主義的、快楽主義的な価値観で染脳されています。

    そういった価値観がいいか悪いか以前に、自分がどれだけ染脳されているかを知る必要があります。世間の大多数の人々の考え方、好みといったものを疑う必要があります。肉食文化もその一つです。

    機械的な大量屠殺システムを不可欠の産業として組み込んでいる社会は、人間に対する大量殺戮兵器を不可欠のシステムとして備えることでしょう。

    他者を抹殺し、消費することが “善” であるとわれわれは思い込まされています。肉食はまさにそれを体現するものです。肉食文化は快楽主義的以前に極めて攻撃的なものです。

    多くの人々は 「そんなのこじつけだよ、考え過ぎだよ」と自分に言い聞かせながら、“脱”染脳 を拒否することでしょう。

  5. 人間 より:

    昔から存在する議論ですね。

    肉を食いたきゃ食らえばよし。草を食みたきゃ食めば良し。動植物界自体がそういう摂理で動いているのに、人間だけが蚊帳の外に居ようとすること自体が不自然。所詮人間もいつかは小さい虫たちに啄ばまれる存在です。大した問題ではない。好きなペットを愛するのも自由、その隣で死んだペットを焼いて食べるのも自由。大した問題ではない。それが嫌で肉は食わず草のみ食べるのも自由。自分の価値観を人になすりつけるのが人間の悪い癖。他の多くの動物はそんな価値観なぞ何も考なくただ己の生を生きていくだけ。それで良し。所詮どの生にも意味は無い。ちっちゃなちっちゃな出来事でしかない。それを大袈裟にしているのは人間の癖。そりゃそうさ、この人間様だけが弱肉強食の掟からはみ出し、実際の体力勝負、身体能力勝負でない社会を築いてしまったからね。物事を全て頭で考える社会を。自分が人間様だと思えば動物愛護を論ずれば良し。自分も動物界の一員だと思えば気ままに殺生するも、その傍らで好きな動物を愛でれば良い。ただそれだけのことじゃ。

  6. 生命代表 より:

    Unknown

    えっ!? 殺生がそんなに悪いことなの?知らなかった … 。じゃあオレ達どうやって生きていけば良かね。

    「殺生=罪悪」の式はそれこそ宗教(仏教)に洗脳されてませんかね?

    生物学的、すなわち科学的、すなわち論理的、すなわち道理的、すなわち普遍的には殺生は必然の事です。

    今更騒ぐほどの事でもあるまいに。

  7. ザウル より:

    人間 / 生命代表 さま

    お二人とも非常に似通った反応を示していますね。要するに、「肉を食おうが、何をしようが勝手じゃないか!」 ということに尽きます。

    しかし、不思議なことにこの記事では 「肉を食べてはいけない」 とはどこにも言っていないのです。なのに 「肉食」 に反対しているかのように勝手に解釈して抽象的な見当違いな反論しているのはなぜでしょうか?

    この記事は、動物好きを自認したり、動物愛護を謳ったりしながら、家畜の組織的“殺処分”を黙認している矛盾、論理的不整合を問題にしているだけです。

    こうした論理的不整合、一貫性の無さが自分の価値観にひそんでいることが明示された場合、ひとは非常に感情的に反発します。なぜならば、その価値観は食事を含む毎日の行動にも反映するほど根深いものだからです。

    自分が今まで疑わずにきた価値観に大きな矛盾が存在することを指摘されると、多くの人はそれを改めるよりは、何とかそのまま正当化しようとします。

    そして、食事を含む毎日の行動の拠り所である自分の価値観を正当化するために、誰にも否定できなさそうな一般論をいきなりブチ上げて、その中に自分の価値観をすり込ませようとするのです。

    そうして実に空疎な “一般論” や “抽象論” を展開し、相手がそれを否定できないのなら、自分の価値観も安泰だと思い込もうとするのです。このトリックはすべ自分の矛盾した価値観を正当化し、自分という人格を防衛するためなのです。これを “一般化のトリック” と言います。

    一見抽象的な立論に見えますが、実は非常に感情的でヒステリックな反応なのです。

    人間 さまの場合:「自分も動物界の一員だと思えば気ままに殺生するも、その傍らで好きな動物を愛でれば良い。ただそれだけのことじゃ。」 ダラダラと書いていますが、要するに 「何でもありだ」 という極端な一般論によって、自己防衛、自己正当化しています。

    「昔から存在する議論ですね。」 ・・・ 無理やりの一般化です。

    生命代表 さまの場合:「殺生が悪い?」 これは、誰も言っていない極端な一般論へのすりかえです。

     「生物学的、すなわち科学的、すなわち論理的、すなわち道理的、すなわち普遍的には殺生は必然の事です。」  思いつく限りの抽象的な一般論を振りまわしての必死な自己正当化、自己防衛です。

    そもそも「生命代表」と名乗ること自体がすでに “一般化のトリック” です。

    追いつめられたひとほど必死になって “一般論” を振りまわすことが実によくわかります。

  8. 人間 より:

    Unknown

    国語力が弱い?

    殺生とは何か、またそれをどう捉えて、どう付き合って行くのかの根本を問うているのですよ。

    それがあやふやだから、それに派生する事項が全てあやふやになるという事に疑問を投げかけてるのです。

    自論では「おそらく殺生に関する明確な答えはない、それ故にあやふやなままで付き合うしかない」と思っています。しかるにこれに派生する事項も全てあやふやとして付き合わざるを得ない。

    よって正解も間違いもない。

  9. ザウルス より:

    人間 さま

    ご自分の国語力が弱いことをみずからお認めのようですが、だからと言って、話のすり替えや問題の回避の理由には全然なりません。

    そもそもここの記事は「殺生に関する明確な答え」を出そうとしているわけではありませんよ。勝手に話をふくらませて、すり替えているようですね。

    「おそらく殺生に関する明確な答えはない、それ故にあやふやなままで付き合うしかない」 と勝手な結論を出していますが、誰が聞いたって論点をズラしています。

    この記事は、動物好きを自認したり、動物愛護を謳ったりしながら、家畜の組織的“殺処分”を黙認している矛盾、論理的不整合を問題にしているのです。

    この問題をあなたは「おそらく殺生に関する明確な答えはない、それ故にあやふやなままで付き合うしかない」と言いながら、故意にボカして回避しています。つまり、逃げています。

  10. 人間 より:

    Unknown

    殺生ははたして悪いことでしょうか?

    みなさんどうお考えでしょうか?

  11. ザウルス より:

    殺生悪い? さま

    その質問はすでに 「生命代表」 さまが 2018-07-03  にしています。  「えっ!? 殺生がそんなに悪いことなの?」

    これに対しては、きちんと回答済みです。

    要するに、あなたはこちらが主張してもいないことに話を勝手にすり替えているのです。ここの記事がまるで「殺生は悪い」 と主張しているかのようにすり替えているのです。

    そうして、「おーい、みんな、こいつは “殺生は悪い” といっているぞー!」 と触れまわって、少しでも味方を増やそうとしているのです。

    しかし、こちらはどこにもそんな一般論は主張していないのです。

  12. 殺生 より:

    Unknown

    豚をペットとして飼いながら豚肉を食べることの意味がわかる人はおりますか?

    牛や豚を閉じ込めて、他の動物たちのような自由を奪い、単なる食肉として扱うことの意味がわかりますか?

    殺生をしないで生きていける生物は存在しません。

    殺生は生命の根源です。

    いづれ私達も他の微生物や昆虫達の餌となります。

    それでお返しが出来るのです。

  13. ザウルス より:

    殺生 さま

    回答として以下の記事を書きましたので、ぜひお読みください。

    「朝日 sippo (2) 「殺生不可避論のトリック」: 生きることは 「殺生」 か?」

    https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/b4878f153ca6e75ea7aac14f8c5860fd

  14. ザウルス より:

    殺生 さま (2)

    「いづれ私達も他の微生物や昆虫達の餌となります。それでお返しが出来るのです。」   とのことですが、日本では “土葬” は法律で禁じられていますよ。

    あなたも “火葬場” で灰と骨とになるんです。微生物や昆虫達も骨壷の中の、高温で焼かれて何の栄養もない灰や骨にまで興味は持ちませんよ。

    なので、せっかくですが、「お返し」 は難しいと思います。

  15. エネルギー&質量保存の法則 より:

    Unknown

    たとえ骨つなりしも、その骨はいずれ地に帰り、

    焼いた煙は空を舞い、いずれ他のものの内に宿る事となろう。

  16. ザウルス より:

    法則 さま

    それって、死にゆく者への慰めのようにしか聞こえませんが、実に凡庸でぜんぜん面白みがないんですけれど。

    そもそもここの記事と何の関係もありませんね。

  17. ねこひな より:

    肉食否定派です

    肉を食べることがどんなに残酷かということに気が付いて8年前にきっぱりやめました。

    その後犬猫殺処分を改善するために保健所に通ったり抗議したり保護活動もしたりしました。一番多くの人に理解されそうな分野だったから。その間、犬猫動物愛護活動をする人の中で菜食だった人はたった一人でした。犬猫と家畜は別、という都合のいい思い込みは洗脳レベルで染みついているので、何も言わない方がいいなと思わされます。ただ、私は肉を食べない(食べられないと解釈される)と伝えただけでした。

    このような記事を最近では見ることもなくなりましたが、なんだか初心に帰ります。人間はいつまでもこの悪習をやめないんだろうな、と半ばあきらめの境地でしたが、勇気をもって発信し続けなければと思いました。

    殺生は心が痛みます。その痛みこそが、よくないことをしているからだと私は思います。痛まない人のほうが多いのなら世界は今そんなレベルだ、と思うしかない。

    殺さないで済むのなら殺さない方がいいに決まってる。肉食しなくても健康に生きられます。

  18. ザウルス より:

    ねこひな さま

    「犬猫と家畜は別、という都合のいい思い込みは洗脳レベルで染みついているので、何も言わない方がいいなと思わされます。」   とのことですが、 今は空前のペットブームです。

     “動物好き” を自認しながら、同じ動物の肉を食べている人が潜在的に無数にいるということです。その矛盾に満ちた思考回路を問題視することから始めてみましょう。

    「肉食否定か?」、 「肉食肯定か?」 いぜんに、「あなたはご自分のペットを食べられますか?」 と訊くことです。

    「ペットと家畜は違うでしょ!」 と言い出すはずです。その論理の矛盾はすでにこの記事で明らかにしています。

  19. りゃ より:

    横から失礼します

    驚愕したことを思い出しました

    ずいぶん前、美容に気を使ってるらしい女性とのやりとりです。食生活の話になりました

    鹿肉は脂肪が少なく美容にいいらしいねと尋ねたところ本人からは「鹿はかわいそう」と

    では牛や豚は?と尋ねると「牛と豚はスーパーに売っているしみんな食べているから大丈夫、鹿は可愛いし食べるのは可哀想」と返ってきました

    堂々となんの疑いも感じられないこの発言に、もはや呆れるを通り越して絶句です

    これが牛さん豚さんありがとうの結果なのでしょうか?世の中が只々おそろしいです

  20. ザウルス より:

    りゃ  さま

    牛肉、豚肉、鶏肉 として食肉産業によって社会的に流通しているものを消費することには何の問題もないとふつうのひとは思っています。

    スーパーの肉売り場に並ぶ肉の栄養、健康上の問題ではなく、“動物倫理” 、“同じ生き物としてのモラル” といった観点からの問題がそこに存在しうることが理解できる人は一万人に一人もいないでしょう。

    “産業化” しているものは “正しい” と無脳層は自動的に判断するのです。

    スーパーに「牛肉コーナー」 「豚肉コーナー」 が現に存在するのだから、そこから買ってきて食べることには何のやましいことはないと思うのです。つまり “社会的慣習” はそのままで常に正しく、それに従うことは “善” と思われているのです。

  21. わんきち より:

    Unknown

    心の底から共感致します。つい最近まで、動物保護及び畜産動物の解放のために、肉を口にしていない方たちの、本当の考えを全く知る由もありませんでした。情報を調べていくうちに、畜産動物を取り巻く様々な事実を知り、映像で見たり、情報を得ることで、点と点が結びつき、線になり、心の底から理解しました。

    様々な情報を発信して下さって、感謝致します。貴重な時間をさいて、大変な作業を本当にありがとうございます。これからもどうぞ発信し続けていただきたいです。

  22. ザウルス より:

    わんきち さま

    ご賛同ありがとうございます。

    “食” は毎日のことです。理屈ではなく、習慣です。しかし、習慣は変えられます。習慣の奴隷になって死ぬまで変えないひともいれば、新たなよりよい習慣に切り替えるひともいます。

    気づいた時からでいいのです。わたしもそうでした。生まれた時からずっと “普通に” 牛肉や豚肉を食べていました。しかし、ある時気づいたのです。人間は罪深い動物です。いくら遅くても、気づいただけよかったのです。

    その時から、生きものすべてに対するまなざしが変わってきます。家で飼っている猫、駅前広場の鳩たち、スーパーの肉売り場のパックに包装された牛や豚たち・・・。

    「ハックルベリー・フィンの冒険」 の作者、マーク・トウェインは、今から100年以上前に「わたしは肉を食べrない。動物はわたしの友達だからだ」 と言っています。さらに 「人間を知れば知るほど、動物が好きになる」 とも言っています。わたしは100年遅かったと思いますが、気づかないよりはよかったのかもしれません。

タイトルとURLをコピーしました