完璧要求のトリック

 

 

完璧要求のトリック(詐術)をしかける人間

 

 

 

画廊での会話

 個展を開いた日曜画家が、見に来た友人と話をしている。

* * * * * * * * * * * *

友人: この絵、風景画にしちゃ小さくないかな。もっと大きいキャンバスに描かないと風景画としてちょっと物足りないねえ。

画家: いやー、絵の道具一式と一緒に富士五湖まで持って行くのに、このサイズでも大変なんですよ。

友人: なるほどね。でも、帰って来てから大きいキャンバスに拡大して描けるんじゃない?そうやって描く人もいるでしょ?

画家: ま、できないことはないですけれど、キャンバスも大きいのはけっこう高いんですよ。

 

友人: いい作品を創りだそうと思ったら、やっぱり多少はお金はかかるんじゃないですか、何だって。

画家: ・・・ そうかもしれませんね。

友人: そうですよ。いくら趣味でも、中途半端なものじゃ意味が無いですよ。せっかく富士五湖まで行って描くんなら、やっぱりそれなりのものに仕上げなくっちゃもったいないですよ。

画家: 別にプロでもないんでね。

友人: プロじゃなくても、やっぱり何でもやる以上は、中途半端じゃダメですよ。いい加減なものじゃ意味が無いですよ。

画家: それほどまでの情熱や執念はないですから、私の場合・・・

友人: そんなことはないでしょう。富士五湖まで行くんだし・・・。

画家: 別に絵で食べているわけではありませんしね。

友人: 絵で食っているかどうかは、関係が無いでしょう。プロかアマチュアかは関係ないですよ!アマチュアだって、本当に精魂傾けた作品は心を打つと思いますよ。逆にプロだって、手を抜いていい加減な作品を描いているのはいくらでもいますしね。やっぱり、何だって“中途半端”じゃ、意味ないですよ。

 * * * * * * * * * * * *

 

この“友人”の論法を、“完璧要求のトリック” という。

● 相手の業績にイチャモンをつけ、高い要求水準を突き付けている。

● そしてその要求水準を満たさないかぎり、“中途半端” と断じている。

● 与えられた条件下で相手がどれだけのことをしたのかを考慮せず、理屈だけで “完璧”を要求している。

● 相手の業績に対して、相手の立場に立った正当な評価をしようとしない。

● 自分は何一つ作りださず、単に付け刃の “口だけ” で相手の業績を貶めている。

● そしてそれによって、何も作りだしていない自分のほうを優位に置いて、作りだした相手に上から目線で一方的に“説教”をしている。

● 作品とその画家は一方的に “ターゲット” にされ、手ぶらの門外漢の“友人” は言いたい放題の権利を行使している。

● 絵にかぎらず、苦労して何かを作り出す、“発信”する、という経験のほとんどない “友人” はいっぱしの批評家気どりで、“際限のない説教” をすることができる。

● そして、“説教” をしている人間は、常に相手を自分の“下”に見ているもので、説教をしているあいだはその“上下関係” に居座り、限りない“至福の優越感”に浸っているのである。

● 次から次と新たな要求を繰り出して相手の上に積み上げていけば、必ず相手を潰せると思っているのである。 

 

 

“業績”“作品”と言うと大げさかもしれないが、要するに自分の側からのアウトプットであり、“発信”である。プロ、アマを問わず、ピアノ演奏、会議での提案、ブログの記事、油絵、刺繍、料理、なんでもいい。自己表現である。自分からの“発信”である。

そうすると、そうしたひとの業績や作品や“発信物”をダシにして、“完璧要求のトリック” をしかける人間が近づいてくるのである。

 

“完璧要求のトリック” をしかける動機

 

 “完璧要求のトリック” は、けっきょくは “攻撃” である。

 “完璧要求のトリック” をしかける動機は主に3つあるが、3つはかなりオーバーラップしている。

1) 相手の業績を貶め、潰してやろうという攻撃的、破壊的な動機

2) 相手の業績をダシにして、説教をしながら優越感に浸ろうという動機

3) 業績を残した相手に対するコンプレックスを覆い隠し、自分のプライドを守るための “自己防衛的” 動機 

 

 根底にあるのは、何らかの業績を成したり、積極的に何かを生み出し、“発信” している人間に対する “コンプレックス” であり、そこからからくる “嫉妬心” である。

自分自身がいつも何か作品を生み出している人間は、安易に他人に対して“完璧要求のトリック”をしかけたりしないものである。苦労や努力がわかるからである。相手が完璧でないことを暴きたてて悦に入るような人間の心には人間としての “品性の卑しさ”がある。相手が完璧でないことを明らかにすることは誰にでもできることなのだ。自分が “発信” しておらず、何もターゲットにされないことをいいことに相手にだけ“完璧”を求める人間 は、自分の卑劣さに気づいていない。

 

圧倒的多数の受信生活者

実際、世の中では自分はこれといったものは“発信”せず、ふだんはほとんど受身の “受信”に終始している人間の方が圧倒的多数である。テレビでもネットでも一般大衆によるその利用は99%以上が、“受信”である。電車の中の無数のスマホ族のうち、自分のブログを更新しているような人間は、千人中一人もいないのだ。

 

他人が発信したものについてあれこれ言っているだけの人間がふつうの平均的な人間である。ふつうの人間の“発信”は周りの人間との“会話レベル” にとどまっているものだ。“自己表現”としては、あとはせいぜい “ファッション”や“カラオケ”程度のものである。高齢者になればなるほど受身になって“発信率”が極端に小さくなり、老人ホームの入居者たちは一日中テレビの前のソファで口を開けて座っていることになる。

 

では、若者が積極的に発信しているかというと、そうでもないのだ。電車の中で若者が夢中になっているのはゲームや漫画をはじめとして、しょせん“受信”に大きく傾いている。自分にとって有益、得になる情報、自分の好きな芸能人についての情報、そのほか自分が面白いと思う情報をむさぼる毎日なのである。つまり、高齢者は “受け身に” “受動的に” 受信している のだが、多くの若者は “能動的に” “積極的に” 受信している、という違いがあるだけだ。

 

 

  発信することのリスク

自分で絵を描いて個展で発表したり、動画を作ってYouTube に投稿したり、自分のブログ記事を書いたりということをふだんしている “発信型” の人間 は、年齢にかかわらず実際は世の中の超少数派 である。 

 

彼らにとってはふつうのことであるが、実際、何かを“発信”するというのは、非常に“勇気”の要ることなのだ。他者からの評価、批評に身をさらすというのは簡単にできることではないのだ。発信内容によっては、笑われたり、突っ込みを入れられたりする。“責任”を問われることもある。批判や攻撃を受けて、それらにきちんと応えなければならないこともある。それだけのリスクが “発信”という行為にはつきまとうのだ。頼まれもしないのにわざわざリスクを負ったり、負担を背負いこんだりするのは、“表現欲”や“発信欲” のほうがそれらをはるかに上回っているごく一部の人間だけなのである。

 

“受信生活”の気楽さ

そこへいくと、受信だけの生活は気楽なものである。“受信生活”には何の責任もリスクもないし、負担もない。受信はいつでもできるし、いつでもやめられる。“受信”だけでも楽しいし、けっこうためになる。知識も増え、賢くなった気にもなる。モノでも情報でも、自分の好きなものを買い集めたり、ネット上からダウンロードして集めて満足に浸ることもできる。特に無限の情報世界を提供してくれるインターネットには中毒性、依存性すらある。

しかしである。そうした圧倒的多数の平和的な“受信生活者”の中には、“発信生活者”の人間に対して、つねに潜在的なコンプレックスを抱いている人間がごく少数ながらいるのだ。 “発信”する人間がたまたま身近にいたりすると、「大したことないのに、いっぱしな顔をしている」ように思えてならないのだ。面白くないのである。

そこで、“完璧要求のトリック”をしかけ、相手を凹ませ、束の間の“逆転”を果たし、 “至福の優越感”に浸ろうとするのである。

 

 “完璧要求のトリック(詐術)” の他の例:

 

 

A: 写真でいくら別人だ、替え玉だと言ったってダメだよ

B: 写真でも、ほとんど正面からのものを複数使っていますから、誤差は無視できるくらい小さいです。

A: やっぱり実物で測って比較しなくちゃダメでしょ。

B: 実物ですか? あいにくわたしには “実物” が手に入らないので、こうして写真で比較しているんですがね。

A: でも、写真じゃやっぱり不正確でしょ。

B: そんなことはないですよ、絶対的な計測値を出すのが目的ではなくて、両者の計測値が大きく隔たっていることを証明するのには、写真だけで十分な精度が得られます。

A: そうそう、やっぱり指紋がいいですよ。指紋なら一発ですよ。

B: 指紋ですか?それはあなたがやったらいかがですか?どうせ手に入らないと思っていて言っているんでしょう?

A: いや、わからないですよ、手に入るかもしれませんよ。それとあと、DNA鑑定も必要じゃないですか?

B: なるほど、ぜひそれも手に入れて下さいな。

A: そうそう、声紋鑑定をなぜやらないんですか?これはぜひやってくださいよ。何か音声もあるんじゃないですか、ネット上に。

B: 一人の人間がすべてのことしなくてはならないとうい義務も責任もないと思いますが ・・・

A: やってくださいよ。そこまでやらなくちゃ “本物” じゃないですよ。全部やってくれたら信じてあげますよ。 ハハハハハ。

 

 

A: UFO、UFOって、見たこともないやつがあれこれ言ったってしょうがないんだよ。

B: わたしは見ましたよ。

A: え? どこでだよ?

B: 会社の屋上で見たんですよ。三角形で、やたらデカいんです。

A: 飛行機だろ?

B: いえ、飛行機だったら、飛んで行ってしまいますけど、わたしが見たのはいつまでも同じ場所にいるんですよ。それに、とにかくデカいんです。あれは飛行機でも、ヘリでもないです。

A: そんなのは口でならいくらでも言えるんだよ。写真でも撮ってあるんならべつだけどな。

B: 写真撮りましたよ。

A: え? 

B: 3枚写メで撮りましたよ。今持っているスマホじゃなくて、以前使っていたガラケーで撮ったんで、今ここにはないですけれど。

A: でもなー、UFOの写真なんてな、いくらでも作れるんだよ。UFO写真として出回っているほとんどは、でっち上げのインチキなんだよ。

B: わたしのは “でっちあげ” じゃありませんよ。

A: 本物だと証明できんのかよ!

B: 証明もなにも、その場で撮って、写ってるんですからね。

A: だから、言っているだろ、そんなのはフォトショップでいくらでも作れるんだよ!本物だって言うけれどな、そのUFO写真が本物だと専門家が判定したのかよ?どっかの大学のセンセイが科学的に証明したのかよ?

B: そんなことまではしてませんけれど ・・・。

A: そうだろ?そんなんじゃ価値ないんだよ!そんないい加減な写真はそれこそ星の数ほどあるけれどな。やっぱり、ちゃんと科学的に証明されていなかったら意味ないんだよ。相手にされないんだよ。当たり前だよ!

 

この“A”の論法を、“完璧要求のトリック” という。

● 相手の業績にイチャモンをつけ、高い要求水準を突き付けている。

● そしてその要求水準を満たさないかぎり、“いい加減” “ダメ” と断じている。

● 与えられた条件下で相手がどれだけのことをしたのかを考慮せず、理屈だけで “完璧”を要求している。

● 相手の業績に対して、相手の立場に立った正当な評価をしようとしない。

● 自分は何一つ作りださず、単に付け刃の “口だけ” で相手の業績を貶めている。

● そしてそれによって、何も作りだしていない自分のほうを優位に置いて、作りだした相手に上から目線で一方的に“説教”をしている。

● 作品とその作者は一方的に “ターゲット” にされ、手ぶらの門外漢の“友人” は言いたい放題の権利を行使している。

● UFO写真にかぎらず、苦労して何かを作り出す、“発信”する、という経験のほとんどない “友人” はいっぱしの批評家気どりで、“際限のない説教” をすることができる。

● そして、“説教” をしている人間は、常に相手を自分の“下”に見ているもので、説教をしているあいだはその “上下関係” に居座り、限りない“至福の優越感”に浸っているのである。

● 次から次と新たな要求を繰り出して相手の上に積み上げていけば、必ず相手を潰せると思っているのである。自分は手ぶらで、上から目線で一方的に説教しているだけである。こんな楽な話はない。

 

 

 

コメント

  1. ショウ より:

    自分では何もせず茶々入れるだけの奴

    いますよね。何か大きな事を成し遂げた人、あるいは成し遂げようと努力している人に対して

    「お前暇だな」「もっとやることあるだろ」と、茶々入れるだけの真の暇人。

    このような人に限って、「では、貴方は今まで何をしたのか?」と聞いてみると、絶対に大した努力をしていないんですよね。

    真剣に何かに打ち込んだ経験や成し遂げた経験がなく、その尊さも喜びも知らない、薄っぺらな人物であることが明白です。

  2. ザウルス より:

    ↑ ショウ さま

    顔を出さない匿名のネット世界にもいろいろな人間がいます。決して一様ではありません。コメント欄のたった一行の文だけでもその人間の品性が表れるものです。

    この “完璧要求のトリック” を使ってあちこちのコメント欄や掲示板を荒らしている品性の卑しい連中がネット上には数多く跋扈しています。

    多くのブログ主や、youTube 投稿者は、このトリックをしかけられると、萎縮して、自分が完璧でないことを認めざるを得なくなります。するとこのトリックをしかけた輩は「それみろ!」 とばかりに勝ち誇って、説教するのです。多くの人がひとの良さに付け込まれて、コメント欄を荒らされているのです。

    同じことを ここのブログでやろうとする人間は、ものの見事に反論されて、尻尾を巻いて逃げて行きます。

    わたしが完璧だからではありません。単にわたしが自分が完璧でないことを知っており、また完璧である必要もないことも十分に知っているからです。ところが、多くの人たちは自分が完璧でないことに気後れしているのです。だから突っ込まれるのです。

  3. りゃ より:

    Unknown

    ザウルスさんのブログを全部読みました

    どれも素晴らしく、自分がうまく説明できない事をわかりやすーく説明してくれていて「あーそうだよな、そうなんだよなー」と言う気持ちになりながらほぼ一気に読んでしまいました、お陰で私は少しだけザウルスさんのファンになってしまったかもしれません

    ブログを読むことにより頭の中の整理が進み自分なりの纏まりも付き、なんとなくな位置付けもできるようになりました。完璧要求って後だしじゃんけんですよね、根底は、土俵違い、ルール違反、架空の勝利、対幻想、非現実、などなど、、、

    相手を口ごもらせて勝った気になれる人が多いことに悲しく思うと同時に少しだけ羨ましくもおもってしまいます、、単純でいいなーと

  4. ザウルス より:

    りゃ さま

    このブログの全部の記事を読んだとは驚きです。本にしたら、ゆうに2冊分にはなるでしょう。

    “完璧要求のトリック” の典型例が今、わたしの動画「愛子様と替え玉」 のコメント欄で繰り返し出てきます。わたしの、愛子様も替え玉も児童虐待の被害者だという主張に対して、以下のような “完璧要求のトリック” が繰り広げられることになります。

    「それなら、東宮御所に文句を言いに行け!そこまでやらなきゃ意味が無い!」 

    「本当にそう思うんだったら、死ぬ気で最後まで徹底して抗議しろよ」

    「目歯比率だけじゃだめです。声紋分析もやってください」

    等々

    こういう要求を次々に繰り出していけば、相手を潰せると思っているのです。

    わたしがすべてのことをしなくてはならないという義務はどこにもないのです。

    わたしが今している以上のことをするかしないかについては、私自身が好きなように決めればいいことなのです。

    他人が私に対してあれこれ要求する権利はどこにもないのです。それなのにあたかもそうした権利があるかのように勝手に思い込んでいるのです。

    そして相手がその要求に応えなければならない義務があると思い込んでいるのです。

    何かを主張する人間に対して、こうした要求攻撃がなされるのは、単にその主張を潰したいという動機に根ざしています。それも、その主張があまりにも正論で、筋が通っていると場合に特にこの要求攻撃が激しくなされます。

    自分ではきちんとした反論ができないので、かわりに相手に暴走してもらって自爆してもらおうというわけです。

  5. まみむめ見太郎 より:

    目からウロコ!

    ザウルス様、初めまして

    愛子様がおかしい 違う人に見えると思い あれこれ見ていくうちにこちらのブログにたどり着きました。

    もう、素晴らしいの一言です! すっきりしました。

    そして、”完璧要求のトリック” 私は、ブログをやっていないので文字での攻撃はないですが 実生活でよくあります。

    嫉妬や妬みの裏返しなんですね。

    やっと理解ができました。

    これからも応援しています。

    ありがとうございました。

  6. ザウルス より:

    まみむめ見太郎 さま

    「目からウロコ!」

    「すっきりしました」 

    「やっと理解できました」

    まさにこういう言葉が聞きたくて、わたしは記事を書いています。わたしの記事がお役に立てたようで、嬉しいかぎりです。

     “自脳層” に属するひとたちが自然に 「ザウルスでござる」 に集まってきます。以下の記事をお勧めします。

    「無脳層、他脳層、自脳層  “3脳論” は差別主義か?」

  7. 皇室信望者 より:

    信じていません

    もうおやめください。まだ未成年者の愛子さまを本物だとか偽物だとか言うのは日本人としての人権を捨てているようなものでは無いのでしょうか?

  8. ザウルス より:

    「皇室信望者」 さま

    みずから 「皇室信望者」 と名乗るほどの “信者” さん ですから 「わたしにはまともな理屈は通りません」 と最初から宣言しているようなものですね。

    そういった “信者” さんの見方からすると、今の愛子様はニセモノでは?と疑問に思うような人間は、「日本人としての人権を捨てているようなもの」、 つまり、「日本人として認められない」 ということになりますね。 たしかに 「わたしにはまともな理屈は通りません」 と言っているに等しいです。

    そんな乱暴で一方的な考え方がまかり通ると思っているモンスターの 「皇室信望者」 さん、ぜひ以下の記事をごらんください。

    「最新!愛子様 2017 年 高校入学式:ニセモノがわからないひとは頭おかしい?」

    http://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/0077972117e682b9ee6e1cd6ae9a4b9c

  9. ころん より:

    まさにトリック

    「完全要求」?

    初めて聞く言葉でした。

    画家と友人の会話を読み進んでいる間は、

    画家は、全く言い訳がましいな、

    と、感じていました。

    その後のザウルスさんの

    トリックの説明も1度では、全く理解出来ず、

    二度三度読んで、深く理解出来た時、青ざめました。

    「これ、私は、20年間、夫に同じことをされてきた!!」と。

    まさに、「トリック」です!

    1度トリックがわかれば、全部見える。

    トリックがわからないうちは迷宮に入る。

    どれだけ苦しくて、悔しくて、地団駄を踏んできたことか。

    私は、夫には、「問題点は絞っていこう、広げないで」とは、よくお願いしていました。

    なぜ夫とは、問題解決ができないのか、全くわかりませんでした。

    完全要求を知らなかったから、翻弄されていたんです。

    教えてくださり、ありがとうございました。

  10. ザウルス より:

    ころん さま

    相手のほうは本能的にこのトリックを仕掛けているので、トリックという自覚すらないものです。そうするのが気分がいいのでやっているのです。しかし、その心理の根底には相手に対する暗い支配欲が潜んでいます。

    謙虚なひとほどカモにされます。ほとんどの場合、一生気づかないでしょう、どちらの側も。

    気づいた人は、より自由になれるはずです、どちらの側も。

  11. ころん より:

    Unknown

    もう3年も前になるのですね。懐かしく自分の書いたコメントを読みました。完全要求をされている事に、3年前に気が付き。また、ザウルスさんの他のブログも読ませていただいて、ザウルスさんが、自分で考えておられる姿勢に感銘しました。そして私は自分の頭で考えるという事に気が付きました。そして、この3年前のこのコメントを書かせていただいた日から、私は生まれ変わったように必死で生きてきました。自分で考えました。必死で考えました。

    ほんとに毎日が死にそうでした。夫に怒鳴られても、こちらは、平常心を保つように訓練しました。生まれ変わるって、挑戦ですね。

    今では、完全に夫の言動を封じ込める事が出来るようになりました。今でも、夫の言動(考え方)は、ほとんど変わりませんが、私の方でストップさせることが出来るようになりました。「問題点を広げたからそれ以上は、話さない。その話には付き合わない。」と、言える自分になれました。または、問題点を広げられた場合は、「その事は後で話そう、今はこの問題を話してるから、違う話しは持ち込まないで」と言えるまでになりました。けれど、3年かかりました。

    もちろん、その努力と同時に、いつ離婚されてもいい。自立して生きてみせる、というような、依存している私の性格も治すようにしました。

    すべてこのブログのザウルスさんの記事から出発いたしました。

    ザウルスさんのお陰だと感謝しています。

    顔も知らぬ私という1人の人間の人生を変え、助けたと、ザウルスさんには、喜んでいただけましたら、幸いです。

    感謝しています。ありがとうございました。

  12. ザウルス より:

    ころん さま

    3年前のころん様の書き込みには衝撃を受けました。そして、この記事との最初の出会いが、ころん様の覚醒、自信、精神的自立につながったという報告は、実に劇的な展開で、さらなる衝撃です。

    この 「完璧要求のトリック」 という記事は、ザウルスのブログ記事や動画への攻撃に対する戦いの中で思索を重ねて生まれたものです。そうした多くの攻撃者たちの心に潜む暗い、卑劣な心理作用を白日の下にあばく必要がありました。その同じ心理作用が、日々の人間関係の中でも広く存在しているという実例がころん様の2つの書き込みです。

    ころん様の場合は、被害者であった側がこの記事がきっかけで気づいたために、その完璧要求のトリックの呪縛から逃れることができたのだと思います。真摯に思索を重ね、責任をもって発表した記事がひとの役に立ったのであれば、うれしい限りです。

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