「お茶の水女子大、トランスジェンダー受け入れ」 性同一性障害は “カルト”?
まずは報道内容を確認しておこう。
「戸籍上は男性」 とは、解剖学的に男性で、男性器をブラ下げている人間である。
「心の性別が女性」 とは、当人が 「俺の心は女性だ」 と勝手に思い込んでいることを意味する。
「そう思い込んでいるひとは、国立の女子大を受験できますよ」 ということである。
「合格すれば大手を振って男子禁制の女子大のキャンパスを好きなだけ闊歩できますよ」 ということである。
まるで男性が銭湯の女湯に入れるような特典である。
股間にブラ下げていても、心は女性だと 「自覚」 していればいいのだ。女性である証拠も証明も必要ないのだ。「自覚」 とはけっきょく当人がそう思い込んでいればいいということだ。
そして、そう思い込んでいるかどうかは、そう強く主張するかどうかで決まるのだ。つまり、強く言い張ればいいのだ。「わたし、心は女性なんですう!」 と。
さらに言えば、思い込んでいる必要すらもないのだ。思い込んでいるフリをして、そう言い張っていればいいのだ。
そんなことまでする人間がいるだろうか、とフツーの人間は思う。しかし、世の中にはそこまでする “フツーでない人間” はごく稀にいるのだ。そして、そういった人間が 「性的少数者」 として堂々とまかり通っている可能性がある。
フツーのひとには理解できないかもしれないが、異性のフリをしたり、異性のように振舞うことに快感を覚える少数者 が世の中にはけっこういるのである。
こうした連中が、やれ 「LGBT」 だの、 「性的少数者」 だのとして “優遇” されていることがある。
「性的少数者」 としての その希少性を “特権” に転じて “利益” を得ているケースはテレビなどでも珍しくない。
「性的少数者への理解が進むということは望ましいと考えています。」 林文部科学大臣
さて、このニュースが報じられる4か月前に、以下の興味深い報道があったことを覚えている人がどれだけいるであろうか?実に目立たない記事ではあった。
4か月前にこの新聞記事を目にしたとき、わたしはその重要性に注目し、きちんとコピーを取っておいたのだ。どこが重要なのかおわかりであろうか?
このたった1つのケースが持つ意味は途方もなく大きい。
“身体の性別” は科学的、客観的、実証的に簡単に証明できるが、
身体と異なると当人が主張する “心の性別” は科学的、客観的、実証的に証明できず、その証拠も何一つない、ということである。
今日の最前線の科学、医学、生物学、心理学を以ってしても 「俺は心はオンナなんだ」 ということは誰にも証明できないのである。「わたしは心はほんとうは男なんです」 と言い張っても、そこには何の証拠もないのである。
「自認」 とか 「自覚」 とか言っているが、けっきょく当人がそう思い込んでいるというだけの話である。
この4か月前の新聞記事の当事者は、自分の心は女性だと思って、自分の男性器の切除手術のためにわざわざタイに渡航して入院手術を受けたのである。その結果、日本の戸籍上では男性から晴れて女性になれたのである。
しかし、数年後に自分はやっぱり男だったので戸籍を元の男性に戻してほしいと申請したという何ともマヌケな話なのである。
たとえ切除した男性器は戻らなくても、せめて戸籍上は元の男性に戻りたいという切なる願いが受け入れられたという、めでたしめでたしの事例ではあるが、見逃してはならない点がある。
「精神科医2人に性同一性障害との診断を受けた後、性別の変更を家裁に申し立てをし、認められた」 とあるが、精神科医によるこの診断は何ら科学的、客観的な根拠に基づいたものではないのだ。
当初診断した精神科医の一人は 「本人が強く思い込んだことで誤診した」 と非を認めている。「心は女性なんです」 と言い張る当人の話を聴いてあげて、「そこまで強く思っているんならそうなんだろう」 程度の診断だったということだ。
文部 “科学” 省の大臣が、何ら “科学” 的根拠のない当世流行の 「LGBT」、 「トランスジェンダー」、「性同一性障害」 に迎合しているのである。
しかし、科学的、客観的な証拠が何もない 「トランスジェンダー」 への理解がどうやったら進むのか?
“当人の思い込み” にすべてがかかっている性同一性障害は、そもそも客観的に “実在” するのか? そう思い込んでいる当人の主張だけか?
当人が 「生活の混乱の中で思い込んでしまったが誤りであった」 のが、専門家の精神科医が2人がかりで診断しても、“ニセモノ” を見抜けなかったのである。
わたしには想像できる。「そうした “ニセモノ” もあるかもしれないが、ほとんどは “ホンモノ” なんだ」 などと言いだす手合いを。「そんな “ニセモノ” は例外中の例外だ」 とか何とか言う輩(やから)である。
そう言うひとたちにぜひお答えいただきたい。
“ニセモノ” と “ホンモノ” をどう区別するのか? どこでどう線引きするのか?すでに現在自分が性同一性障害、トランスジェンダーだと思っている人間のかなりの部分も実は 「生活の混乱の中で思い込んでしまった」 ケースである可能性もあると言えるのではないか?
それどころか、本当は 性同一性障害は全員皆そういった “思い込み” の犠牲者である可能性 すらも排除できないのだ。つまり、全員、客観的な裏付けのまったく無い “ニセモノ” である可能性である。
トランスジェンダー論には、そういった危うい “カルト的” 側面がある。
当人や同じ信者たちの思い込みにすべてかかっている、科学的、客観的な根拠も証拠も一切ない “幸福論” “救済論” という “カルト” との共通点が多すぎる。
性同一性障害のひとびとは、自分のブログやインタビューで心と体の不一致に苦しんだ自分の前史を積極的に縷々語る。そして本来の自分を取り戻すための苦難の自分史を語る傾向がある。
ネット上のトランスジェンダーたち
こうして自分は本来の自分を解放できた、体を心に合わせることができてついに幸せをつかんだと。しかし、これは “カルト” に染脳されていく典型的パターンである。「屈辱的な過去」 「自分さがし」 「差別とのたたかい」 「本当の自分の復権」 といった通過儀礼を経て “信者” になっていくのだ。
わたしは4か月前に初めてこの新聞記事を読んだ時には笑ってしまった。何ともマヌケな申立人がいたものだと。
しかし、今回あらためて考えてみると、この申立人は、非常に自分に正直なひとなのではないかとも思えるのだ。
さらに言えば、このひとはトランスジェンダー運動という怪しげな “カルト” から目が覚めて、まともな考え、まともな生活に復帰したひとである可能性もある。
つまり、いったんは “カルト”にハマってしまったひとが、自力で “脱染脳” を成し遂げた、すごい話なのかもしれないのだ。その代償は大きかったかもしれないが。
「性別の自認は 『揺らがない』 という前提だが、まれに揺らぐ人はいる。」 とこの新聞記事にはある。当たり前である。 “カルト” はしょせん “思い込み” であり、目が覚めるひとは必ずいる。揺らがないのは、同じカルト信者と一緒に流行に乗っているからである。
さらに 「医師が慎重に見極めなければならないが・・・」 とあるが、そもそも医学的、生物学的、科学的な根拠など何もないのだ。 「慎重に」 もクソもないだろう。
けっきょくただ当人の 「心は女性」(または「心は男性」) という 「思い込み」 の度合いだけで判断、診断しているというお粗末さなのである。
言い換えると、 “性同一性障害カルト” にすっかり “染脳” されていれば “陽性” つまり、 “ホンモノ” で 「揺らがない」 という診断になり、まだ迷いがあって “性同一性障害カルト” に十分に染脳されていないひとは、“陰性”つまり “ニセモノ” という診断になるということである。
“当人の思い込み” にすべてがかかっている性同一性障害は、“カルト” とどう違うのか?
トランスジェンダーのひとたちを積極的に受け入れようというのが私立の女子大なら、ご愛敬で済むかもしれない。
しかし、国の税金で運営する女子大が、科学的根拠のまったく無い、いい加減なカルトまがいのカタカナ語の流行に迎合し、文部“科学”省の総理大臣がお墨付きを与えているのを、慧眼な納税者たちはどう見るであろうか?
林芳正文部科学大臣
コメント
この件の本当の目的は何でしょうか?
女子大が、いまだ健在というのにも違和感はありますが。
本人の強烈な思い込み(染脳)で、ホルモンバランスは変わるものだと思いますし。
自然界では、メスばかりが集まると、メスのオス化の話もあったと思います。
じゃあ、誰からオス化するのか??
自然界では、チカラの強い大きな個体だったと思います。
文部科学省が科学的でない論理的でない話をする。これは論理的ではないので、裏に何かあるはずと感じざるを得ません。
コレを進める事に、どんな目的があるのでしょうか?
ji さま
まず、女子大をやめて男子受け入れにするまでの “つなぎ” 措置の面が考えられるでしょう。
もっと一般的な傾向として、いわゆるLGBT運動に対してより受容的な姿勢を見せることにより、より開かれた、より民主的で、よりマイノリティにやさしいイメージを獲得することができるというメリットがあります。
同性カップルに対しての証明書発行に実施中/前向きに取り組んでいると表明している渋谷区、世田谷区、中野区、宝塚市、那覇市などの市区はマイノリティの人権に関して 「すすんでいる」 というイメージを獲得しています。よりやさしく、より自由なイメージというだけでも大きなメリットになるかもしれません。
早い話が、イメージアップのために性的少数派を使っている面があります。
なるほど
そもそも、前提として共学にするという目標があり、どうせ共学になるならと、その前段階を作ったということですね。
マイノリティーを受け入れる姿勢を見せる事で、イメージアップを狙う。
イメージアップの為に、マイノリティーを利用したということですね。
腑に落ちました。
ありがとうござます!
そんな単純なものじゃありません
性同一性障害というものはザウルスさんが言うようなそんな単純なものではありませんよ。もっといろいろなケースがあって、100人いたら100通りのケースがあるんです。カルトだとか科学的じゃないとか言ったって、人間は科学ですべて割り切れるものじゃありません。
r a l f さま
、国立の女子大学として税金を使う教育機関である以上、その経営方針については国民に対する説明責任があるのではないでしょうか?
科学的な説明とまでは言わなくても、合理的な説明が必要ではないでしょうか?心が女性だと主張しながらも、股間には男性の生殖器をブラ下げた人間を国立の女子大が受け入れなければならない理由を合理的に説明できているでしょうか?冷静に考えて下さい。
性同一性障害が先天的な病気だという科学的、医学的、遺伝学的な証明すらないのです。唯一存在するのは当人の強い思い込み、、確信だけなのです。少なくとも何らかの精神的疾患である可能性はありますが、それが性同一性とは直接には関係しない可能性もあるのです。
納得です!
このニュースをテレビで見た時、まさかと思いました。ニュースが終わっても納得がいかず、もやもやした気持ちでした。昨日から気になって検索していて、こちらの記事にたどり着きました。今まで読んだ記事でいちばん納得がいく内容でした。
そうです、性同一性障害を何か本当に存在するメンタルな障害と考えるからおかしくなっちゃうんですね。はっきり言ってまともに扱うに値しない相手なのに、文部科学省までがご機嫌とりをしているのはどう考えてもおかしいです。
ザウルスさんの明快な論理ですっきり納得です。ありがとうございました。
さやりん さま
お役にたてて何よりです。
ジェンダーに限らず、障害者、外国人といった 「少数者にやさしい」 という自治体や教育機関や企業というと、何か “思いやり” があって “ひとにやさしい” ところであるかのようなイメージが意図的に作られてきています。そういう企業や自治体や学校は 「すすんでいる」 というブランドを獲得し、そうなっていないところは 「おくれている」 とみなされます。
言うまでもなく、大学の入学者数は決まっています。股間に男性器をブラさげた一人の人間がお茶の水女子大に入学を許されれば、まともな女性の受験生が一人締め出される勘定になります。これは不合理な差別になります。合理的、客観的な根拠によって正当化することのできない不当な差別になります。
診断書なくても・・・
一昨日の新聞によると、お茶大の学長が記者会見して、診断書がなくても心が女性なら受け入れると公表したそうです。生徒減、学生減になってきてどこの大学も学生集めに必死なのはわかりますが、なりふりかまわずといった印象ですね。
EIJI さま
女子大でなければ学べないようなものはありません。女子大はすでに過去の遺物です。
そもそもことさら女子大に行きたいという奇特な女性は少なくなっていますが、そういった女性がわざわざトランスジェンダーという限りなくあやしい存在が侵入し始めた女子大に行きたがるでしょうか?
学生増を狙ったつもりが、“逆効果” になるのがオチでしょう。
Unknown
私はチェンマイに住んでいるが、よく行く山岳民族アカ族が経営する喫茶店「アカアマ•コーヒー」の店員さんに、今でも女性か男性か分からない若者が一人いる。男性なら美少年、女性なら美少女(若かりし頃の美輪明宏?)。タイは性別のみならず何かにつけおおらかな国なので、一説には18の性があると言われている。(生物学的性別と見た目の性別と異性の好みの性別で細分化されているらしい。)ただ、いくらおおらかな国と言っても、本人はやはり悩んでいるらしく(そういう内容のタイ映画を見た)難しい問題だ。お茶の水女子大の場合は経営的発想が見え隠れする。
Unknown
同感です、性同一障害などただの性癖そもそもこの社会に女性らしいものなんてあるのでしょうか?男性優位な社会で男が望んだ言葉遣い服装キャラクターそれを女が使ってるだけ、男がデザインした服装も多くあります。女性が描いた漫画とかみればかなり質素なもの多いですよね、めちゃくちゃ巨乳にしてみたりいい歳こいて周りの女性がきないような服装を普段着にしてみたり。どっかどうみても男性的な思想ですよねw
思い込み さま
「女らしさ」 だの、 「男らしさ」 だの、「子供らしさ」 だの、 「~らしさ」 と付くことじたいが客観的な実体の無いことを表しています。つまり、イメージであり、幻想であり、社会的な虚構なのです。多くの場合、それらは “あるべきイメージ” という社会的に期待される役割として暗黙に要求されています。
たとえば、母親同士の会話で 「お宅の△△ちゃんもすっかりお姉さんらしくなってきたわね」 と言った場合、これは 「△△ちゃんが妹や弟の面倒を見たり、手本になったりという社会的に期待される役割を十分に果たしているように見える」 という意味なのです。その意味での “誉め言葉” なのではないでしょうか?
それに対して、「下の□□ちゃん、すっかり妹さんらしくなってきたわね」 とは決して言いません。なぜならば、まず、上の子供が下の子供の面倒を見るのは親の仕事を助けるという意味で社会的に望ましいことであり、当人の成長にとってもプラスと考えられています。
一方、下の子供は、親や上の子供に依存するばかりの存在ですが、その依存状態はそのまま肯定され得ず、むしろその全面的な依存状態から脱しなければならないと思われています。そのため、「妹らしさ」 という社会的期待を込めたイメージとしては像(イメージ)を結ばないのです。
このように、“社会的な期待” が存在する場合にのみ、「~らしさ」 が口にされ、問題となります。
Unknown
最低ですね。異性愛者でさぞ自分は普通な人間だとお思いなんでしょうね。カルトはあなたの方じゃないですか?わたしは異性愛者で性同一性障害でもないですが、性同一性障害の方達が普通でないとは思いません。世の中こんな人もいるんですね。あなたのほうがよっぽど頭おかしいですよ。
たか さま
記事にはこう書いてあります。
「“身体の性別” は科学的、客観的、実証的に簡単に証明できるが、身体と異なると当人が主張する “心の性別” は科学的、客観的、実証的に証明できず、その証拠も何一つない、ということである。
今日の最前線の科学、医学、生物学、心理学を以ってしても 「俺は心はオンナなんだ」 ということは誰にも証明できないのである。「わたしは心はほんとうは男なんです」 と言い張っても、そこには何の証拠もないのである。
「自認」 とか 「自覚」 とか言っているが、けっきょく当人がそう思い込んでいるというだけの話である。」
この主張を否定する 「あなたのほうがよっぽど頭おかしいですよ。」
違いますか?
この主張が 「おかしい」 と思えるのは、単に今流行の “LGBT” のプロパガンダに乗せられているからなのです。