“自由” の新概念

「自由」 の定義は西洋思想史においても過去千年以上さほど大きく変わっていない。

 

古典的な自由の定義とは、「拘束や強制の無いこと」 である。非常にわかりやすい。

 

ウィキペディアでは、「自由とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。 哲学用語。」 とされている。同じことである。

 

 

鳥かごの中のカナリヤには 「自由」 がない。

 

留置場に入れられた者は 「自由」 を奪われている。

 

週末は平日よりも比較的 「自由」 がある。

 

仕事で忙しい人間は 「自由」 が少ない。

 

一人暮らしの人間は家族持ちよりも比較的 「自由」 がある。

 

「自由時間」 のほうが好きなことができる。

 

「自由作文」 のほうが好きなことが書ける。

 

「表現の自由」 とは 「好きなように表現すること」 である。

 

 

 

「主体の自主的活動、主体の自主的表現を妨げるものが無いこと」 と言っても同じであろう。

 

さて、以上のような古典的定義の「自由」とは異なる「自由」の概念を以下にご紹介したい。これはわたしが自分の思索によってたどり着いたものである。

 

自由の概念は、基本的に “ネガティブ” である。他からの拘束や強制の “無いこと” である。他からの制限や支配の “無いこと” である。実はわたしがこれから提示する自由の概念はネガティブな形式でもポジティブな形式でも表現できる。

 

しかし、このネガティブな形式は “定義” というもの自体からしばしば出てくるものなので、自由と言う概念に特徴的なものというわけではない。他の別の例を挙げるならば、「平等」 とは差別の“無いこと”である。

 

さて、わたしの提示する 自由の概念は以下のものである。

 

 

自由とは “抵抗率の小さいこと” である。

 

 

「なんだ、大して代わり映えしないじゃないか」 と思われるひとがいることであろう。

 

しかし、2つの点にご注意頂きたい。

 

 

 

1) “有無”の問題  から “程度”の問題  への変換

 

まず、、「抵抗 “率の小さいこと”」 としていて、 「抵抗 “の無いこと”」 としていない点に注意して頂きたい。自由とは “有無” の問題ではなく、“程度” の問題であると考えるからである。自由の古典的な概念では、「拘束や強制の無いこと」 としているが、これは単に話を単純化、抽象化しているだけのことである。

 

 

現実の世界では、“より自由な”人  がいたり、“より自由な”時間  を過ごしたり、“より自由”な学校  に通ったりしているのである。つまり、新概念では、“程度” の問題ととらえることによって、自由を “より” 現実的な問題と見ているのだ。100%自由な状態、抵抗率ゼロの状態は理論的には可能ではあっても、われわれの実際の生活においてはあまり現実的ではなかろうという認識を土台にしている。

 

 

 

2) 逆転して見えてくる真実

 

なお、これは、ポジテイブなスタイルで以下のように表現することも可能だろう。

 

 

自由とは “伝導率の大きいこと” である。 

 

 

論理的には同内容であることに異論はないとは思うが、いかがであろうか。たとえば、電気“伝導率”の単位は、その定義から電気“抵抗率”の逆数である。

 

さて、ここまで受け入れて頂けるならば、以下のような思いきって単純化した表現はいかがであろうか。

 

 

自由とは “伝導率” である。

 

 

これでもまだ 大して代わり映えしないじゃないか」 と言っている人は哲学的センス以前に、日本語のセンスが大きく欠落していると言えよう。

 

 

古典的な “自由” 概念における行動主体

 

古典的な自由の問題においては常に、活動する主体の存在が前提になっているのではなかろうか。これはあまりにも当然なことのようで、明示されていない場合がほとんどである。分かりやすく言うと、自由とは常に “誰か” の自由 であるはずだ。それが 「室内飼いの猫」 であれ、独り暮らしのOLであれ、行動主体の存在が前提になっているはずだ。

 

 

自由とは伝導率である。

 

 

“伝導率” と言ういじょうは、いやでも “媒体” の存在を前提とせざるをえない。“媒体” は、近頃では「記憶媒体」 とか 「広告媒体」 などのように情報に関して使われることが多い。しかし、ウィキペデイアによれば、媒体とは本来は、「あるモノと他のモノの間に取りいって媒介するもの。 媒質 – 物理学の用語で、波動や力が伝播する場となる物質・物体のこと。」 である。さてこの引用の中で、「伝播する場」 と言っている点にご注意頂きたい。「場」 である。「場」 ということは 「環境」 である。

 

電気で言えば、“銅線” “電線” は媒体であり、それの電気“伝導率” もしくは 電気“抵抗率” を問題にすることはごく自然なことではなかろうか。

 

さて、皆さんにはそろそろ心の準備ができたのではなかろうか。

 

わたしは、

 

 

人間は “電線” である。

 

 

と言っているのである。

 

 

つまり、「わたしは自由である」 とは 「わたしの “伝導率” は大きい」 ということなのである。「わたしの “抵抗率” は小さい」 と言ってもいい。銅線であるわたしは定義上 “媒体” なのである。電気などを通す “媒体” なのである。

 

 

“媒体” と言うと、どうしても “受け身で非能動的な存在” をイメージしてしまう。“行動主体” とは “真逆” なものに思えてしまう。しかし、わたしはまさにその通りのことを言っているのである。

 

 

わたしは、

 

人間は “媒体” である。

 

と言っているのである。

 

 

わたしの提示する自由の新概念は、従来の古典的な自由の概念、そして、“行動主体” としての従来の人間観を根底から覆すものである。

 

電気を伝える電線たちにとって、自分たちの中を通過する電気の電圧だのパルスだのと自分たちはまったく無関係であって、そういったものは自分たち電線が決めるものではない。電線は右で受けたものを左に、もしくは左で受けたものを右に、忠実に “伝導” “伝達” するだけである。 あえて言えば、できるだけそのまま忠実に福音をつたえる “伝道” 師たち に過ぎない。

 

別に “電気” にこだわる必要はない。“熱” でもいい。エアコンの “冷媒” でもいい。エアコンや冷蔵庫の冷媒にとって、温度や、循環のスピードは自分たち以外のところで決められるものであって、自分たちはそれをそのまま黙々と伝えるのが仕事である。

 

 

さて、ここで当然の疑問が起こるだろう。我々が “電線” だとしたら、“電流、電気” とは何なのか?

 

もちろん “媒体” は、何かを伝えるものであり、その何かは “媒体” を通して “流れるもの” である。これは 記憶媒体の場合でも同じであろう。さまざまな“記憶媒体”たとえば、レコード、カセットテープ、CD、マイクロSD といった記憶媒体を通じて音声情報が流れる。同じように電線という “媒体” を通じて電気が流れているわけだ。

 

情報にしても電気にしても、これは抽象的なレベルでは単に “流体” と呼ぶしかないものである。これをエネルギーと呼びたいひともいるであろう。この記事では、わたしはこれの実体を突き止めるところまでは深入りはしない。現段階では、単に “流体” もしくは “コンテンツ” と呼ぶにとどめておく。

 

 

ここで重要な点は以下の点である。

 

 

“電線”自体から “電気” は発生しない。

 

“記憶媒体”自体 から ”記憶” は発生しない。

 

“情報媒体”自体 から “情報” は発生しない。

 

 

“媒体”自体 から “流体” は発生しない。

 

“媒体”自体 から “コンテンツ” は発生しない。

 

 

当たり前なことの確認である。 非常に重要な点なので、クドイくらいに確認させて頂きたい。

 

 

 

 

“媒体” とはいわば、管(くだ)のようなものである。“チューブ”をイメージしてもらってもかまわない。“チューブ” の中を “流体” が流れているのである。“電線” の中を電気が流れるイメージよりわかりやすいかもしれないが、どちらでも同じである。中を流れるこの “流体” を “コンテンツ” と言ってもいいかもしれない。 また “管” は “パイプ” でもいいし、“ダクト” でもいい。もちろん、“ケーブル” “ワイヤ” “コード” でもかまわないのだ。比喩や例えは理解を助けるための “方便” にすぎない。特定の比喩に執着することはむしろよくない。いろいろな比喩をゆるやかに使うのがよい。

 

 

そして、わたしの主張は、

 

われわれ人間は、“チューブ” である。

 

ということである。 

 

 

そしてわれわれは、われわれを通して “コンテンツ” が最小の抵抗でスムーズに流れていれば、みずからを “自由” であると感じているのである。そして、逆にわれわれを通して流れるべき “コンテンツ” の流れが滞ったり、詰まったりすれば、みずからを “自由” でないと感じるのである。いずれにしても、人間は 自由であれ、不自由であれ、終始 受動的な “媒体” にとどまっている。

 

古典的な自由の概念とはかけ離れたイメージであることが、そろそろおわかり頂けたのではなかろうか。

 

 

“媒体”自体 から “コンテンツ” は発生しない。 

 

ということは、

 

 

“コンテンツ” の発生源は “媒体” ではない。

 

 

ということだ。

 

実に当たり前なことなのである。たしかにSDカードが “入れ物” に過ぎないことは誰でも知っている。

 

しかし、“コンテンツ” が “媒体” 上で “再生” されるとき、多くのひとは “媒体”自体が “コンテンツ” だと思ってしまう。この“錯覚” は珍しいものではなく、ごくありふれたものである。

 

この “錯覚” が 当の “媒体”自身 による場合、自覚されることはほとんどない。コカコーラのポスターを見てから数分後に渇きを覚え、たまたま通りかかった自販機で立ち止まってコカコーラを買って飲んでいる人間は、コカコーラを飲みたかったのはまさに自分自身の欲望であると思っている。21世紀なのに、自分が17世紀と変らない古典的自由における “行動主体” であるかのように思っているのだ。しかし、ここでの “行動主体” はコカコーラであり、飲んで満足した人間は “行動主体” の遠隔作用の対象となって “自由” を行使した “媒体” もしくは “客体” に過ぎない。

 

 

“自由” は “行動主体” の存在を前提にしている。“行動” は通常それに先立つ “欲望” によって引き起こされる。“欲望” によって “欲望を満たすための行動” が引き起こされるわけだ。そして、その欲望は通常すべて同じ人間から発していると思われているのだ。しかし、すでに確認してきたように、人間は “媒体” である。そして “媒体” とは論理的に言って、「伝播する場」 であり、 単なる「場」 である。「場」 ということは、言いかえれば受動的な “環境” である。

 

 

非常に受け入れにくい考え方であるために、論理以前に単なる違和感からこの論を拒絶するひとも多いことであろう。 なにしろ、 “人間” は “媒体” であり、“環境” である、と言っているのだから無理もない。

 

そして、論理的に言って “環境” の反対概念こそ、“行動主体” なのである。“環境” という概念は、暗黙にそこにおいて生活する “行動主体” の存在を前提としている。たとえば、火星の環境と言った場合、何らかの生命か活動主体がそこに存在するとしてという前提が当然あるはずだ。

 

古典的な自由概念においてまさに人間自らのことであったはずの、そうした “行動主体” という概念は、実はすでに人間から脱け出ていたのである。

 

 

能動的な “行動主体” であったはずの人間は、多くの人が気づかないうちに、集合的で消極的な “媒体”、そして、受動的な “環境” へと静かな変貌を遂げていたのだ。ではその、反対側、対極に存在しているはずの能動的な “行動主体” とはいったい何なのか?これについては、さらに考察を重ねなければならないが、まず言えることは、さまざまな “顔” を持っていると言うことだ。その典型的な姿は、“資本主義” である。

 

18世紀にヨーロッパで誕生した資本主義が産業革命を経て発展し、押しとどめようもなく20世紀に突入した。そして情報革命と電磁波革命によって地球という惑星が情報網によって毛糸玉のように包まれる頃には、もう人間はとっくの昔に “資本主義” というモンスターの “行動主体” の “媒体” になり、その手足となっていたのである。そしてその “媒体” になることに、電線となることに、血管となることに、生きがいを、人生の目的を見いだし、“媒体” に徹することを阻害されれば “不自由” を感じるほどになっていたのである。

 

 “ヒューマニズム=人間主義” という “人間賛歌” も、実は人間がその主体性を奪われていく過程における “白鳥の歌” だったのである。20世紀の終わりとともに “人間の時代” は終焉を迎えたと見ていいだろう。今我々がリアルタイムに生きているこの21世紀は、実はもう “人間の時代” ではないのである。そんな時代はとうの昔に終わっているのだ。誰も認めたくないので、誰も葬式を出そうとしないだけである。

 

 

今さら18世紀以前の古典的な自由概念に浸って、自らを “行動主体” であるかのように思うのは 見え透いた“自己欺瞞” であり、明白な “論理矛盾” であるばかりでなく、 甚だしい“時代錯誤” でもある。冷静に過去200年を振り返ってみれば、人間はとうの昔に “主体” ではなくなっているのだ。産業革命のときに人間はこのことをはっきり自覚すべきだったのだが、“ヒューマニズム” という “自己賛美” に酔ってうつつを抜かしていたのである。もう出番は終わっているのに、いつまでも舞台の袖でヘタなポーズを取っていたのである。

 

21世紀になって人工知能が人間の知能を上回って久しいが、その発達ぶりはめざましく、多くの重要な問題の解決には人間の知能はもはや役に立たず、どうしても人工知能に頼らざるを得なくなっていることはもはや常識となりつつある。一方で、産業のさまざまな分野でロボットが導入され、人間の大量失業は時間の問題となっている。人間がついには、人工知能様とロボット様のあいだをチョロチョロ走り回る “パシリ” となってくるのは目に見えている。その程度の仕事しか残っていない時代に突き進んでいるのではなかろうか。

 

 

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