彼らが求めていた具体的な内容と、その背景は以下の通りです。
- 内容:当時の日本大学では、国税庁の査察によって約20億円にものぼる巨大な使途不明金(脱税や裏金)が発覚していました。
- 要求:全共闘は、学生から集めた膨大な授業料がどのように不正流用されたのか、そのすべての使途を明らかにすることを強く求めました。
- 内容:当時の日大は「古田一族」による独裁的なワンマン経営が行われており、大学の私物化が問題視されていました。
- 要求:不正の責任を取り、古田重二良会頭をはじめとする全理事が即座に総退陣することを要求しました。
- 内容:当時の日大では、学生が新聞を発行したり、ビラを配ったり、集会を開いたりすることすら大学の許可(検閲)が必要でした。
- 要求:学生の「言論の自由」や「政治活動の自由」を全面的に認め、当局による不当な思想統制・検閲制度を廃止することを求めました。
- 内容:大学当局は、不正に抗議する学生たちを抑え込むため、体育会系の学生や右翼暴力グループを「防衛隊」として雇い、日常的に暴力を振るわせていました(これがのちに中村克己さん虐殺事件へと繋がります)。
- 要求:当局が暴力による学生弾圧を行ってきた事実を認め、公式に謝罪・反省することを求めました。
- 内容:一部の代表者だけではなく、全学生が参加できる「大衆団交(オープンな話し合いの場)」で大学側と直接対決することを重視しました。
- 要求:1968年9月30日、日大講堂に3万5千人の学生を集めた大衆団交が実現し、古田会頭に一度はこれらの要求を認めさせ(書面に署名させ)ました。しかし、直後に当時の佐藤栄作首相が「大衆団交での約束は無効」という声明を出し、大学当局も約束を白紙撤回したため、全共闘はその後もこの「約束の履行」を求めて激しく闘い続けました。
2)そこに武装した大学当局の防衛隊が襲撃してきて、我々の仲間の一人が殺された。
3)警察が被害者側のわれわれ全共闘の学生を逮捕するのは間違っている。
4)警察は加害者側の大学の防衛隊を逮捕すべきだ。
わたしは、自分がなぜ逮捕されて勾留されているのかがわからず、何か誤解があるのだろうと思い、事実をありのままに繰り返し話した。19歳のわたしは、警察だって本当のことが分かれば私を釈放してくれるはずだと思っていたのだ。法律とはそういうものだと思っていたのだ。面会に来た母親にも「何も悪いことはしていないんだから、すぐに出られるよ」と言っていた。しかし、勾留期間の目いっぱいの20日間、出してもらえなかった。雪の降る2月の暮れに獄中で寒さに震えていた。これがわたしの権力との付き合いの原点だった。
警察はどちらが悪いかわかっていながら、被害者側の学生たちを逮捕し、見せしめとして起訴しようとした。わたしは当時まだ19歳で未成年だったため、起訴は免れた。
逮捕された全共闘学生のうち、容疑をかけられたメンバーが起訴されました(当時の学生運動の弾圧において、警察・検察はビラ配り側であっても「小競り合いに応戦した」「集団でゲバ棒などを隠し持っていた」などと強弁し、凶器準備集合罪などで強引に起訴するケースが常態化していました)。
公判闘争への発展:
残された日大の仲間たちは「中村克己君虐殺糾弾委員会」を立ち上げ、「不当逮捕・起訴された情宣メンバーの公判闘争(裁判闘争)を支援する活動」を大々的に展開しました。裁判での告発:全共闘側はこの裁判の場(公判)を通じて、被告となった仲間たちの無罪を主張するとともに、「大学当局に雇われた右派学生が凶器を持って襲撃してきた事実」や「警察がその暴力を黙認し、被害者である全共闘側のみを狙い撃ちにして起訴した構造的癒着」を逆起訴する形で徹底的に暴露・告発し、事件の真相究明を求めました。
2. 閣議や国会での「偽りの政府答弁」(歴史的記録)
当時の日本政府(佐藤栄作内閣)や警察当局は、全共闘側を起訴し弾圧の正当性を保つため、国会や公式文書において事件の構図を事実と異なる内容にすり替える答弁を行いました。1970年5月に閣議決定された衆議院の答弁書によると、国(警察側)は事件を以下のように記録しています。「全共闘系学生が、通りかかった日大生に殴りかかったことから小競り合いが始まった」「下校してきた日大生(右派学生)に対し、全共闘系が角材などで襲ったためこぜり合いとなった」「後退しつつあった中村克己君が、走行中の京王線の列車に頭部を接触させて重傷を負い、のちに死亡した」このように政府・警察は、右派による凄惨な集団暴行(リンチ)であった事実を隠蔽し、「全共闘が先に手を出した、通学路での学生同士の偶発的な小競り合い(喧嘩)」であり、中村さんの死も「逃げる途中の列車との接触事故」であると公式に片付けました。この歪められたストーリーを前提として、全共闘側の学生たちが起訴・処罰されることになったのです。:Gemini
Gemini:結論から申し上げますと、中村克己氏を襲撃した大学当局側の体育会系・右派学生らは誰一人として実刑判決を受けていません(起訴すらされていません)。
一方で、襲撃された全共闘(学生)側のメンバーが警察に不当逮捕・起訴され、有罪判決(罰金刑)を受けるという理不尽な結末を迎えています。
裁判と判決の詳細は以下の通りです。
- 襲撃した側の処分(体育会系・右派グループ)
- 不逮捕・不起訴: 中村氏を死に至らしめた襲撃犯(大学当局に動員されたとされる体育会系や右翼学生ら)は、警察に逮捕も起訴もされませんでした。
- これに対し、全共闘や遺族側は「大学当局と警察が結託して事件を隠蔽した」として強く弾劾し、真相究明を求める運動(糾弾委員会など)を展開しました。
- 襲撃された側の処分(全共闘側メンバー)
- 不当逮捕と起訴: 当日、中村氏とともに現場でビラ配り(情宣活動)をしていた全共闘側のメンバーの一部が、事件後に警察によって逮捕されました。
- 判決: 「凶器準備集合罪」などの罪名で起訴された全共闘側メンバー1名は、1974年に地方裁判所で「罰金5万円」の有罪判決を受けました。最高裁判所まで上告して無罪を訴え公判闘争を続けましたが、1976年に有罪が確定しています。
このように、被害者側が罰せられ、加害者側が一切おとがめなしという極めて不条理な結果に終わったことが、日大闘争史においてこの事件が「虐殺事件」として激しい怒りとともに記憶される大きな要因となっています。:Gemini
Q. この異常な事件とその裁判での不当な判決に対して声を上げた知識人や論客はいたか?
Gemini:はい、多くの進歩的・リベラル派の知識人や文化人、法曹界の論客たちがこの事件と理不尽な国家権力・大学当局の姿勢に対して抗議の声を上げました。
1970年当時、日大闘争から始まる一連の学生運動は、単なる「若者の暴動」ではなく「大学の腐敗(20億円の使途不明金)」や「当局による暴力団・体育会系を使った学生弾圧」という構造的な悪に対する正当な告発として、多くの有識者から同情と支持を集めていたためです。
中村克己さんの死と全共闘側のみを狙い撃ちにした不当逮捕・起訴に対し、具体的に以下のような知識人・論客たちが救援や抗議の姿勢を示しました。
- 進歩的知識人・文化人による「救援運動」と抗議
当時、新左翼や全共闘の学生たちが国家権力によって不当に逮捕・起訴された際、彼らを社会的に支援し、裁判費用を集めるための「救援会」が組織されました。これには多くの著名な文化人が名前を連ねて抗議のビラや声明を発表しました。
- 小田実(作家・評論家、ベ平連代表):ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)を率いていた小田は、国家や大学という「既成の権力構造」が振るう暴力に対し、一貫して激しい批判の声を上げ、弾圧される学生側の権利を擁護しました。
- 中野重治(作家)や野間宏(作家):戦後文学界の重鎮たちも、大学当局が右翼や体育会系という「組織された暴力」を使って学生の生命を奪い、警察がそれを追認する形で被害者を起訴した歪んだ司法のあり方に強い危機感を表明しました。
- 日大闘争弁護団(法曹界の論客)による法的告発
裁判の現場において、不当な起訴と戦うために結成された「日大闘争弁護団」には、当時の進歩的・人権派の気鋭の弁護士(田賀秀一弁護士ら)が集結しました。
- 彼らは単に法廷で無罪を主張するだけでなく、学術的・法的な論考、あるいは論壇誌やジャーナリズムを通じ、「政府・警察が、走行中の列車に接触しただけの事故(あるいは全共闘側から仕掛けた喧嘩)と事実をすり替え、集団リンチを行った右派の罪を不問にしたこと」がいかに近代法治国家として異常であるかを厳しく告発し続けました。
- メディアや知識人が批判した「暴力管理社会」の構図
この事件に対し、当時の論壇(『中央公論』『展望』『世界』などの総合雑誌)では、思想家や社会学者らが以下のような視点から、事件と判決(政府答弁)の異常性を論じました。
- 「右翼・当局 vs 左派学生」という非対称性への沈黙:当時のマスコミや一部の保守派知識人は、学生運動内の殺し合いである「内ゲバ」に対しては猛烈なバッシングを行いました。しかし、この中村克己さんの事件は「大学当局の後ろ盾を持った右派による一方的な暴力」であったため、政府や警察がそれを政治的に利用・隠蔽しようとした点について、リベラル派の論客からは「国家による都合の良い二重基準(ダブルスタンダード)だ」として強い批判が浴びせられました。
このように、中村克己さんの事件は「単なる学生同士の衝突」として風化させようとする国家・大学側の圧力に対し、良識ある知識人や法曹界の論客たちが「権力による組織的犯罪」として歴史に刻むべく、救援の署名、言論活動、そして長く続く公判闘争を通じて抵抗の声を上げ続けた事件でした。 :Gemini
Q. 全共闘運動はいつごろまで続いたか?
Gemini:全共闘運動の最盛期は1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)であり、大衆運動としての全共闘は1970年(昭和45年)代の初頭までに事実上終焉しました。
運動が急速に衰退し、終わりを迎えていった経緯と時期の目安は以下の通りです。
- 運動のピーク:1968年〜1969年
- 全国への波及: 1968年に東京大学(東大闘争)や日本大学(日大闘争)で本格化し、1969年には全国120以上の大学へバリケード封鎖やストライキが広がりました。
- 転換点: 1969年1月の「東大安田講堂攻防戦」で機動隊により講堂の封鎖が解除されたことで、象徴的な拠点を失い、運動は下り坂に向かいました。
- 決定的な衰退期:1969年後半〜1970年
- 大学運営臨時措置法の成立(1969年8月): 政府が機動隊を投入して大学の封鎖を強制解除できる法律を作ったため、各大学のバリケードは次々と撤去されました。
- 一般学生の離脱: 授業の長期ストップによる留年の危機や、過激化する闘争についていけなくなったノンセクト(無党派)の一般学生が次々と運動を離れました。
- 事実上の終焉と過激化:1972年
- 内ゲバの激化: 残った政治党派(セクト)間で、主導権を巡る血で血を洗う暴力抗争(内ゲバ)が日常化しました。
- 連合赤軍事件(1972年): 「あさま山荘事件」や山岳ベースでの仲間内のリンチ殺人(総括)が発覚し、社会からの支持を完全に失いました。これにより、大衆が共感する形の「学生運動」としての命脈は尽きました。
歴史的には、1970年の安保延長闘争の節目、あるいは1972年の連合赤軍事件をもって「全共闘運動は完全に終わった」と捉えるのが一般的です。:Gemini
わたしはふだんあまり振り返らない性格だが、まとめてみると、以下のようになる。いわゆる青春時代の多感な時に権力との対峙を余儀なくされてきた歴史的な必然性?(笑)
1968年(17-18歳):全共闘運動ピークに向かう。東大闘争、日大闘争。
1969年(18-19歳):安田講堂攻防戦で機動隊突破。全共闘運動、衰退に向かう。
1970年(19-20歳):各大学のバリケードの撤去開始。「中村克己虐殺事件」
1971年(20-21歳):ノンセクト派の学生の離反。
1972年(21-22歳):残った政治党派(セクト)間で内ゲバ激化。連合赤軍事件。
1973年(22-23歳):一般学生のノンポリ化。「神田川」、「学生街の喫茶店」(1972)
どうにもこうにも、こういう時代にこういう経験をしてしまったことによって、わたしのものの考え方、特に権力観がほぼ決まってしまったのかもしれない。ほかの経験をしていないので、私はこれでいくしかないだろう。


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