(2)“お盆” に見る 「中国産 “産地偽装” 仏教」 に騙される日本人

(2) “お盆” に見る 「中国産 “産地偽装” 仏教」 に騙される日本人

  

 

「盂蘭盆経」 (全) 漢文和文対訳

 

すでに上記の 「盂蘭盆経」 はお読み頂いたことと思う。

 

いかがであろうか?

この捏造された文書は日本では、インドから中国に伝わって “漢訳” された “仏典” として約1500年間ほとんど疑われずに崇められ、読経されてきた。しかし今日、文献学的には偽経(偽造の経典)とみなされている。

 

 

21世紀の今日現在でも、特にお盆の時期には、この 「盂蘭盆経」  は、「お盆」 の由来、拠りどころとして日本の津々浦々のお寺の住職の法話で言及されたり、引用されたりしていることであろう。

実際、日本の仏教の僧侶がお盆に先祖供養の 「お勤め」 をして金銭物品を受け取る理由と根拠は、ほぼ1500年間、まさにこの 「盂蘭盆経」 という仏典の “絶対的権威” だったのである。

“日本の葬式仏教の拠って立つ土台” と言ってもいいくらいの確固不抜の “理論的根拠” であり、かつ “マニュアル” だった のである。

何しろ当の仏典の中でお釈迦様が死者への供養の仕方を、日付から盆に載せる食べ物まで懇切丁寧にこと細かに指示しているのだ。

しかし、その “周到なマニュアル的性格” こそ、インドのオリジナルの仏典らしくない怪しい点なのである。

 

しかし、葬式仏教にとって自らの存在意義、そして仏教学的根拠と思われていた当の最重要の経典が、今日の宗教学者や文献学者からは “偽経=捏造=フェイク” とみなされ、これはすでに “定説” となっている。

 

そして、これに対する有力な反論、つまり 「いや、そんなことはない、これはやっぱり本物だ!」 という反論は、仏教界でも歴史学界でも情けないことに皆無なのである。

 

おそらく、日本の “葬式仏教という業界” では、僧侶が 「盂蘭盆経は “偽経” である」 と口に出して言うことはずっと “暗黙のタブー” になっているに違いない。このタブーを破ることは、“業界の崩壊” につながりかねないだろう。

或る程度の知的レベルの住職たちは、この潜在的な問題に気づいているはずである。そして 「盂蘭盆経」 への不用意な言及が場合によっては藪蛇(やぶへび)になる危険性も考慮していることだろう。

 

この事例は何を意味するのか?

 

はっきり言おう。

 

ある国民が、何百年も何千年も騙され続けていることがあるということだ。

 

 

あなただけではない。 あの聖徳太子も騙されたのである。 斉明天皇も、持統天皇も、聖武天皇も、清少納言も騙されたのである。現代のザウルスの場合は 「何かヘンだぞ」 と思ってちょっと調べたら、真実がすぐに出てきたのである。一般常識とアカデミズムの情報較差は、ネット時代では素人でもその気になれば簡単に乗り越えられるのだ。

 

ふつうの日本人は、いくらネット時代になっても、自分で確かめようとしないので、皆ずっと騙され続けているのだ。これほどまでに何百年も何千年も騙されていても気がつかないのは日本人だけではないだろう。教育水準の低いアジア、アフリカ、南米の国々では普通のことであろう。

 

 

実際、この記事で客観的な証拠を挙げてこれだけきちんと説明しても、「まさかそんなわけないだろ」 と思いながら真実を受け入れることに躊躇する日本人の方が圧倒的に多いであろう。ここまで読んできているあなたはどうであろうか?

 

ザウルスは歯に衣(きぬ)着せずに客観的な事実を証拠とともに伝えるが、世間一般ではそうではない。この日本という国では、主張の内容が特定の産業や職業集団の利権を脅かす可能性がある場合は、ふつうは多少気を使って、目立った発表を差し控えるとか、表現を曖昧にするとか、なるべく断定を避ける表現にするとかして “忖度” をしているのだ。

なので、そうした “忖度環境” にあっては重要な事実が世間のほんのごく一部のひとには知られていても、無知で無関心な一般大衆には何百年も何千年も気づかれないということが実際に起こり得るのである。

 

ここまで言っても、まだ半信半疑のひとが圧倒的に多いであろう。そういうひとたちのために、さらに以下に、別の角度からの証拠を提示しよう。

 

 

釈迦の助言 にしたがい、7月15日” に仏教の僧侶に “供養” してもらった おかげで 目連の “母親” はその 罪を赦された” というのがこの “偽経” のストーリーではなかったか?

 

「盂蘭盆経」 (全) 漢文和文対訳

 

 

一皮むけば、“道教と儒教のてんこ盛り” ではないか?

 

ここまで見てくれば、もう明らかであろう。仏教伝来以来、葬式仏教の盤石の基礎であったこの 「盂蘭盆経」 は、6世紀の中国の僧の手になる “産地偽装” の “フェイク仏典” だったのである。

当時すでに行われていた 道教の死者供養の伝統 と 儒教の“孝”の精神 を、仏陀の優秀な弟子の話というでっちあげの仏典に巧妙に織り込んだのである。そうやって、中国の土着信仰(道教、儒教)を当時圧倒的な人気を博していた仏教の装いで無知な大衆にスムーズに受け入れさせようとしたのである。

そもそも “先祖供養” という要素は、インドで生まれた仏教には皆無である。“先祖崇拝“ という観念は、インドの原始仏教の “輪廻転生” の思想とまったく相容れない。

 

要するに、この偽作者の本当の目的は、ブッダの本来の教えを広めるためではないのだ。単に自分の属する僧侶集団の利益と繁栄のためである。だからこそ平気でブッダの教えとは無関係の話をでっちあげることができたのである。

当時すでに “伝説のスピリチュアルスーパースター” として絶大な人気を誇っていた ブッダ・ブランド” を利用しない手は無かったのである

ブッダのストーリーの “スピンオフ” を手持ちの材料(道教、儒教)ででっちあげ、無知な大衆を騙して引き込むのはたやすいことだったのだ。

経典を書けるというだけで当時はたいへんな知識階級に属しているわけで、そうした人間にとって、文字を読むことも書くこともできない人々をいかに大衆操作するかが一大関心事だったはずである。

 

しかし、6世紀のこの仏典の偽作者は、まさか自分の “でっちあげ” が日本にまで渡って、やがては 日本の葬式仏教の繁栄の礎(いしずえ)になろうとは夢にも思わなかったに違いない。

 

けっきょく、この捏造された仏典には、仏陀の教えなどかけらもないのだ。しかし、聖徳太子もこれが仏陀の本当の教えだと信じて疑わなかったであろう。 

要するに、中国人に “偽ブランドのロレックス” をつかまされたのである。

中国人は今も昔も変わらないのである。そして騙される日本人も昔からずっと変わらない。騙される人間は、永遠に騙されるのだ。

聖徳太子を笑うことはできない。およそ1500年経った今でも、ほとんどの日本人は騙されたままなのだから。違うだろうか?

 

実際、中国産の “偽経” は無数にある。以下のものもほんの一端である。

 

 

 

右の中国画ほど中国人の “中華思想” をよく表しているものはないだろう。

 

「孔子  が  老子  に  仏陀  を手渡す」

(儒教)    (道教)    (仏教)

 

中国で書かれた仏典のほとんどは、こういった “中華思想” に基づいていると言っていいだろう。

百歩譲っても、荒削りな未完成のものを、自分たち中国人が正しく完成して立派なものに仕上げてやっていると思っているのだ。

 

  

日本からの留学僧たちはすでに “道教化”され、“儒教化”され、すっかり体系化された、さまざまな “中国製の仏教理論” の中から、そのときそのときの “中国でいちばん人気の宗派” や “日本人好みの宗派” の理論をピックアップしては取扱説明書をマスターして、いそいそと持ち帰って行ったのである。

そして、中国帰りで箔(はく)をつけた留学僧は、 “新製品好きの日本人” に流行の最先端のお土産を紹介し、その人気に乗じて地位を築いていったのである。

 

先祖供養、仏像崇拝、釈迦の神格化、現世利益、悉有仏性 といった、中国で加わった要素は、インド産ではない中国産の “産地偽装の仏典” の含む、“表示なしのあやしい添加物” だったのである。“主成分であるはずの仏陀の本来の教え” は、有るか無しかの痕跡程度になっていった。

 

実際、中国人は何でも理屈をつけて、無理やりにでも体系化するのが得意である。そして、そういうことが不得手で馬鹿正直な日本人はいつも劣等感を感じ、卑屈にも中国人の “中華思想むき出しの理論” を賛美し、有り難がっていた。

 

日本の僧侶や貴族や大衆には、そうした “唐様(からよう)”の “中国製のフェイク仏教” は権威があって信頼性がありそうに思えたのである。

 

けっきょく、中国の場合と同じように、日本のさまざまな僧侶集団も自分たちの繁栄のために “中国産のフェイク仏教” をとことん利用したのである。

そのためには、仏陀の本来の教えをほとんど含まない、儒教、道教、陰陽五行説 をふんだんに盛り込んだフェイク仏教で十分だったし、むしろそのほうがわかりやすくて都合がよかったのである。

 

日本の僧侶階級は 大陸伝来の “仏教” という絶大な権威 を使って、時の権力者をも支配するような権力 をこぞって手に入れようとしていたのであって、“本来の天竺の仏陀の本当の教え” などはどうでもよかったのである。

つまり、日本では中国と同様、 

仏教は、

    “権力の源泉”  であり、

    “支配の道具”  であり、 

    “繁栄のための資産”   だったのだ。

 

そして今日でも 僧侶階級の “繁栄のための資産” として利用され続けている。

 

これが日本の仏教のすがたである。

 

 

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コメント

  1. Unknown より:

    Unknown

    日本人は騙された、騙されたと言うが、日本人はそんな馬鹿じゃない。日本人は実は騙されたふりをしているだけだ。べつに騙されちゃいないんだ。ふりをしているだけなんだから日本人はほんとは頭がいいんだ。

  2. ザウルス より:

    騙されたふり さま

    お話からすると、あなたは 「頭がいい」 ので、「実は騙されたふり」 をしているだけのようですね。

    わかりました。あなたは 「騙されたふり」 をしているんですね。ご苦労様です。

    それでは、お尋ねします。

    何のために 「騙されたふり」 をしているのでしょうか?

  3. ji より:

    習合とも言えるのでは?

    お釈迦様は、確か輪廻転生を否定してましたと私も記憶しています。

    なので、先祖供養にまつわるもの全てが後付けの物だと私も思います。

    しかし、中国大陸に仏教が伝わった際に人民に受け入れやすくする為に道教などの要素を取り入れたのも納得できます。

    土着の物と渡来の物が習合するのは、宗教だけでなく、あらゆる物がそうだと思います。

    時代が経てば、時流に合わせて教えの解釈や後付けのモノが加わるのではないでしょうか。

    大乗仏教も上座部仏教、チベット仏教も、その時代や地域に馴染むために発生したとも考えられると思います。

    例えば、般若心経も元は中国で作られたとも言われているそうです。

    空の概念を道教の無で表現しようとした解釈もあるそうです。

    また、お釈迦様はマントラを否定していたそうですが、般若心経は思いっきり呪文を讃えています。

    だからと言って、般若心経は偽物と言えるでしょうか?

    それらが本当だったとしても、般若心経の価値は変わりないと思います。

    時代と共に全ての物は変化していきます。これが正しい正しくないは、確かに研究としては面白いですが、一概に否定するのは良くないと私は思います。

    事実、それを信仰し頼ってきた人たちがいますので。

  4. ザウルス より:

    ji さま

    「事実、それを信仰し頼ってきた人たちがいますので」 という理由で 「否定するのは良くない」  というのなら、オウム真理教だって、信仰して頼ってきた人はいるんじゃないでしょうか?

    けっきょくあなたの主張は 「何でもアリでしょ」 と言っているだけのように聞こえます。

  5. ji より:

    ありがとうございます

    確かに、おっしゃる通りです。

    信仰している人がいるから否定してはならないというのは、良く有りませんでした。

    洗脳されている人は、それを信仰しているわけですから。

  6. ザウルス より:

    ji さま

    あなたのようにさっと、ご自分の非を認めることができるひとは世の中には決して多くないと思います。敬意を表します。

    つまり、信じている人がいるのなら、そこには何か真実があるはずだ、とはかぎらないということです。

    この記事で明らかにしたように、いつの時代にも自分たちの利益や権力のために大衆を騙そうとする人間はいるのです。

    宗教家(スピリチュアルリーダー)のような知識階級はつねに言葉 (プロパガンダ) によってひとを支配し、操ろうとするものです。それは1500年前でも現代でも同じです。わたしはそういったプロパガンダに対して警鐘を鳴らしたいだけです。

  7. ji より:

    ありがとうございます

    カラマーゾフの兄弟の大審問官を思い出しました。

    権力者は勿論ですが、多くの人間は現状が変化する事に酷く拒否反応を示します。

    現状に慣らさせ、それが普通だと常識だと洗脳し、いざ真実を突き付けられても、真実を受け入れられない状態にする。

    勉強になりました。

  8. コメット より:

    Unknown

    仏教教典の原典は釈迦存命当時の北インドの民衆が話していたパーリ語で書かれているが、玄奘その他が訳した仏教教典は当然、中国語で書かれている。中国ではこの漢訳仏典を当然、中国語発音で読む。読経は一般民衆が分かるようにその国の言葉で行われるべきであり、タイではタイ語訳が使われる。ところが日本では漢訳を音読みして読経するので、一般民衆は意味が分からない。最初から庶民に有り難がってもらうため、わざといやがらせしているとしか思えない。私はザウルス様のように文献の追求は出来ていないが、日本仏教は胡散臭いと前から思っていた。一時、中村元氏その他の本に凝ったことがあるが、膨大な仏典の中で、お釈迦様のお言葉を原型通り残している事がほぼ確実なのは、岩波文庫に収められている法句教(真理の言葉、感興の言葉?)ぐらいかもしれないと読んだような気がする。早起きすると今でもチェンマイの人々は托鉢に回る僧侶の読経を聞いて、お布施をしているのを見るにつけ、日本より仏教が一般民衆の生活の中に生きていると感じる。

  9. ザウルス より:

    コメット さま

    「ところが日本では漢訳を音読みして読経するので、一般民衆は意味が分からない。最初から庶民に有り難がってもらうため、わざといやがらせしているとしか思えない。」   ・・・ まさに我が意を得たり、です。

    日本の仏教では、もはやブッダの主張や思想はどうでもよく、ブッダという当時絶大な人気を誇っていたスーパースターの “威光と権威” を利用しているだけなので、ブッダの本当のメッセージを伝える必要はほとんど無かったのです。大衆操作するために “ブッダ・ブランド” を利用していただけなのです。

    自分たち僧侶集団の繁栄のために仏教という言説体系をうまく利用していただけなのです。そして、実質的にはそれは今日でもそのまま続いているのです。

  10. sa より:

    Unknown

    インド>中国>日本

    ブッタがスーパースターでなかったバラモンの方がぐちゃぐちゃではなかったでしょうか?

    漢字で翻訳したらすべて嘘みたいな有名なことわざが英であったように思いますし

    良いところだけを抽出していく流れで良いと思います。

    〔先祖供養〕

    こそ財産の固執否定の宗教臭い不必要なものが洗われていく時代の流れを感じましたが

    ザウルスさんは当たり前のように

    子供に何かを残しているのではないでしょうか?

    残そうしているではありませんか?

    それはそれの染脳ではないでしょうか?

    それが〔先祖供養〕発生起源ですが

    それこそ仏陀が否定している自己愛ではないでしょうか?

  11. ザウルス より:

    sa さま

    「漢字で翻訳したらすべて嘘みたいな有名なことわざが英であったように思いますし、」 — 意味不明 

    「良いところだけを抽出していく流れで良いと思います。」 — 「抽出」 でなく、すり替え、添加、捏造でしょう。

    「〔先祖供養〕こそ財産の固執否定の宗教臭い不必要なものが洗われていく時代の流れを感じましたが」 — 意味不明  「先祖供養」 は 「宗教臭さが洗われていく時代の流れ」? ということは 「先祖供養」 になって 「宗教臭さ」 が減った?

    「子供に何かを残しているのではないでしょうか?残そうしているではありませんか?・・・それが〔先祖供養〕発生起源」 — 意味不明   非常に独自な説ですが、まったく意味をなしません。

    「ブッタがスーパースターでなかったバラモンの方がぐちゃぐちゃではなかったでしょうか?」 —  「ぐちゃぐちゃ」 なのはご自分の頭の中?

  12. 現在の仏教とキリスト教は似ている

    日本の仏教は「葬式仏教」であることは、以前から言われ、私も日本の仏教は宗教法人としての経済活動で宗教ではなくなったと思っています。宗教学者の島田さんも著書で表している。うまく表現できませんが、そもそも仏教は、霊とか家族とかは否定しており、「死んだら終わり。霊など無い」はずでした。厳しい修業をした者が、如来というか仏になれ、今みたいに南無阿弥陀仏とか何妙法蓮華経とか、御呪いを言えば救われることはなかった。また。仏教はキリスト教の救済思想やキリストを変に捻じ曲げた、聖職者を権威づけており、仏教もそれに影響されてしまったのと思う。適菜収氏の「キリスト教は邪教である」を読めば、キリスト教と仏教が似ていることがわかります。

  13. ザウルス より:

    でんでん伝助 さま

    “ブッダ・ブランド” の威光と権威だけを好き勝手に利用してきたのが日本の仏教です。“仏教” という “立派なお盆” に宗派の開祖がブッダの教えに好き放題にこじつけた自分の理屈を盛っていただけなのです。 

    それが証拠に,住職がお経を上げても、聞いていてわかる日本語ではなく、漢訳仏典の音読です。こんな国はどこにもあありません。けっきょく、中身はどうでもよく、上っ面だけを撫でているだけで、どの宗派でも末端の僧侶も意味はわかっていないのです。聞いている檀家のほうもただ意味もわからず “権威” にひれ伏しているだけです。

    こういった中身の空疎な儀式の体系が “仏教” であり、そういうほうが日本人には都合が良かったのです。

  14. 平均的日本人 より:

    うちは浄土真宗

    うちは浄土真宗ですが、たしかに身内の不幸があった時しか用はないですね。いろいろ法話をしますが、仕事でいちおう何か言わないと恰好がつかないんだろうなと思いながら聞いています。法要のあとのお斎ではよく飲みますね。すすめればいくらでも飲みますよ。日本の仏教ってそんなもんです。

  15. ザウルス より:

    平均的日本人 さま

    酒を飲めないと坊主は務まらない、と言われますが、本当ですね。酒を飲まない、肉も食べない、なんていう僧侶がいたら、それでも日本の坊主か!? となるでしょうね。

    日本の仏教の主流は、誰でも成仏できる、誰でも往生できる、という浄土系です。日本における仏教のこの “価格破壊”的な大衆化は本来のブッダの教えの徹底的な形骸化のプロセスだったのです。

    仏教 Buddhism は、ブッダ主義ということですが、そのブッダの教えなどは痕跡程度しか残っていないのが日本の仏教です。それでも ブッダの威光と権威を利用するためにいつまでも “仏教” と称しているわけです。

  16. でんでん虫 より:

    Unknown

    藤原が創った平民支配仏教を打破する為、空海、最澄、親鸞、日蓮が行動しましたが弟子達が藤原に、すり寄った為、堕落しました。

    これらの聖人は天皇神道以前の縄文神道を基に仏教改革をしましたが藤原仏教は変わりませんでした。

  17. せいちゃん より:

    目から鱗

    ザウルス様

    凄くおもしろかったです。

    浅くですが、仏陀の教えを読んだりして私自身が感じていたのは仏教って“マインドトレーニングの教本”みたいだな…って事でした。

    あくまでも自身の解脱のための解説書であり、そこには死者への供養的な要素は無かった様に記憶しています。

    恐らく日本に入って来た時には既に葬式仏教的な要素があって、それが時の為政者にとって(自身の死の恐怖からの解放・民衆をまとめるための方法として)都合の良いモノだったのでしょうね。

    仏教の伝来元の中国(隋)にフォーカスしたザウルス様の視点は流石です。

    個人的にはお盆があるおかげで全国的に盆休みがあって、帰省して家族が集まり墓参りをして先祖に手を合わせる、という機会が出来ていることは“良い事”だと考えています。(笑)

  18. ザウルス より:

    せいちゃん さま

    高評価ありがとうございます。

    仏教伝来以前から日本には先祖崇拝はあったはずです。先祖崇拝は東アジア全般に見られる信仰です。

    仏教が東アジアに来たとき、中国の僧侶は中身であるブッダの教えのほとんどを捨てて、ブッダのマークのついた箱だけを使い、そこに自分たちにもとからあった先祖崇拝や儒教などを詰め込んで、これが仏教だとして中国の民衆に広めたのです。

    そのブッダブランドの宗教が日本に来ると、あら、ありがたや、当時まだ原始的だった日本の先祖崇拝に、洗練されたかたちと根拠と権威を与えてくれたというわけです。

    当時の日本人はそのブッダブランドが天竺からきたブッダの教えだと信じたのです。けっきょく日本人は中国人に騙されていただけだったのです。中身詰め替え、産地偽装、不当表示だったのに、本物のブッダの教えだと信じていたのです。そして、それがいまだに続いているのです。

    仏教による先祖崇拝の独占は日本においてほぼ完成したと言えるでしょう。骨の髄まで騙されているので、ほとんど 仏教イコール先祖崇拝 と思っているほどです。日本の仏教から先祖崇拝を取り除いたらほとんど何も残らないのです。ということは、つまりブッダの教えは最初からほとんど入っていなかったというマジックなのです。

  19. Unknown より:

    Unknown

    そもそも仏陀自体は一切経典を書いていない

    仏教はバラモン教のパクり

    同じ仏教でも大乗仏教と上座部仏教で思想がまったく違う

    日本には仏教伝来より儒教や道教の方が早く伝来している

    根本的な知識に欠けている

  20. ザウルス より:

    パクリ さま

    「仏教はバラモン教のパクり」 -----  とのことですが、それはあまりにも一面的で乱暴な位置づけではないでしょうか?

    たしかにバラモン教の輪廻思想などは仏教に引き継がれています。しかし、バラモン教では当時のインドにすでに存在していたカースト制度をそのまま正当化しているのに対して、仏教では頭から否定されています。仏教のそうした体制批判の側面こそが、当時の仏教の革命的な魅力だったのではないでしょうか?

    生きとし生けるものが、人間であろうが、虫であろうが同じであるという平等主義こそが仏教の大きな特徴だったのではないでしょうか?

    なお、ブッダに限らず、イエスもソクラテスも自らは何も書き残していません。むしろ、口先だけではない “言行一致のひと” として、人々に影響を与えたのではないでしょうか?

  21. sy より:

    Unknown

    最新の科学、ではこの世は幻であると言って居ます

    実験で確認したと言う事で、説明論文を読んでも

    分かる様な何か違う様な、まるで坊主の説教の様です

    この次元全ての物事なぜ そう なのか説明しようが

    ありません、説明しようのない物事を信じる

    事が、Unknownさんの言う

    騙されたふりでは無いでしょうか。

  22. ザウルス より:

    sy さま

    Unknown (Unknown)  2018-08-13 17:32:53

    日本人は騙された、騙されたと言うが、日本人はそんな馬鹿じゃない。日本人は実は騙されたふりをしているだけだ。べつに騙されちゃいないんだ。ふりをしているだけなんだから日本人はほんとは頭がいいんだ。

    騙されたふり さま (ザウルス)  2018-08-14 00:53:25

    お話からすると、あなたは 「頭がいい」 ので、「実は騙されたふり」 をしているだけのようですね。

    わかりました。あなたは 「騙されたふり」 をしているんですね。ご苦労様です。

    それでは、お尋ねします。

    何のために 「騙されたふり」 をしているのでしょうか?

    Unknown (sy)  2020-08-15 21:49:58

    説明しようのない物事を信じる事が、Unknownさんの言う騙されたふりでは無いでしょうか。

    ザウルス:

    科学でわからないからと言って、どうして仏教のお話を受け入れなくてはならないんでしょうか?

    そして、単に惰性で受け入れているだけなのに 「騙されたふりをしているだけ」  などとと言うのは、自分は本当は賢いんだと必死になってカッコつけているようにしか聞こえませんが。

  23. sy より:

    Unknown

    サウルス様 

    早速の返信有難うございます。

    人間は自分に気づいた時に、この世に生まれた事を

    認識します、この事はブッダ様キリスト様その他

    幾多の賢人も同じだったと想って居ます

    全て肉体に閉じ込められた同じ人間です

    いくら立派な教えを説いても真の意味で理解できる

    人はほとんどいないと思います

    頭脳の良し悪しは学力、学歴に関係なく

    偉大な知識はほとんど全ての人が理解できないと

    思つて居ます、考えれば考えるほど自分が何も

    知らない事を認識します、多くの人は分からない

    事すら認識していないように思います

    テレビ、ネット、などの出演者は自分の意見は

    全て正しいと言うスタンスで他の人と相反する

    話意見を述べて、何が本当なのか真面に聞けません

    特に政治家の話など馬鹿のフリをしているのか

    本当のバカなのか選挙で投票した人がかわいそうです

    要するに偉そうな権威ある人が講釈を垂れているので

    平民はホントかいなと理解できなくても

    分かった様な錯覚、騙されたフリをすれば

    自分は傷つかない、騙した方が悪い。。

  24. ザウルス より:

    sy さま

    話がどんどん一般化されていくので困惑しています。syさまは、ご自身が教祖をしている宗教をこの場で説かれているようですね。

  25. サエキ より:

    日本仏教

    盂蘭盆経が偽経なら、今に伝わる盆供養といったものも、たしかに本来の仏教とは無関係かもしれませんね。でも、それはそれでいいような気がします。仏教が日本で独自の発展を遂げたのなら、それはそれでそれなりの存在意義があるのではないでしょうか。

  26. ザウルス より:

    サエキ さま

    “仏教” とは “仏陀の教え” のことであるはずではないでしょうか? 「日本で独自の発展云々」 とのことですが、日本人が中国人から受け取った “仏陀の教え” なるものの中身は、中国の土着信仰にすり替わっていて、名前だけが “仏陀の教え” を意味する “仏教” だったのです。

    けっきょく、中国の土着信仰であった道教や儒教等” が 「日本で独自の発展を遂げた」 に過ぎないのですよ。

    それを日本で “仏教” と呼ぶのは詐欺です。当時のスピリチュアルスーパースターであったブッダの権威と威光を利用した偽ブランド商法にすぎません。

    原始仏教とまったく相容れない “先祖崇拝” や “先祖供養” を中心に据えた日本の宗教の存在意義を否定しているのではありません。そういった日本の宗教をあたかも “仏陀の教え” であるかのように “仏教” と呼ぶのは、千五百年来の大嘘であるということです。

  27. ポンぽこ太郎 より:

    Unknown

    ザウルスさん、はじめまして。

    はじめまして、と申しましても、実はボストンマラソンについてのブログ記事の頃から、時々、ザウルスさんのブログを拝読させて頂いています。

    仰りたいことは分るのですが、これを言ってしまったら、仏壇に位牌を安置するのも、ほとんどの大乗仏教の教典も、みんなフェイクになってしまいます。

    位牌は先祖信仰と関係していますが、仏教には輪廻という考えがあることから、位牌は、本来の仏教とは関係ないことは直ぐに理解できると思います。

    そもそも釈迦自身は一冊の教典も著していません。インド製の仏教教典であっても、釈迦が入滅してから数百年も後に著されたものばかりです。

    特に大乗仏教の中心的な考え方は、もう釈迦の考え方とは、かなりかけ離れた思想になっているのだと思います。

    釈迦自身は、弟子ひとり一人に、まったく違った考え方を語ったと言われています。『スッパニパータ』などを読むと、同じ教典の中に矛盾した話が出てくる事がありますが、これは、ある人にとっては正しい道であっても、別の人にとっては、正しい道ではないという事があるからこそ、このような矛盾が生じるのだと思います。

    矛盾を許容しているのが仏教の考え方なのではないでしょうか。

    たしかに宗教が「宗教団体」という組織になったとき、組織の利益と繁栄のために活動するようになり、本来の意味や目的を失ってしまうことはあると思います。

    実際、民間信仰としての道教と、老子の思想は、まったくかけ離れたものです。キリスト教においても、まさか植民地支配の道具にイエスの教えが利用されるとは、イエス自身、思ってもいなかったことでしょう。

    仏教においては、本来は、ひとり一人、その人自身のためのオーダーメイド思想を創作するのが目標になっている筈なのですが、そのような考えだと宗教団体という組織化をするためには、あまりにも効率が悪いため、教典の体系化が進んだという一面があるのでしょう。

    また、釈迦は、釈迦に対して崇拝的になっていた一人の弟子に対して「私は、あなたの師ではない、あなたの師は、あなた自身の中に存在しているのだ」と語ったと伝えられています。この話と似ている話がニーチェのツァラトゥストラの第一部の最終章で語られているので、もしかするとニーチェも仏教の影響を受けて、この章を書き上げたのかもしれません。また、この釈迦の言葉には難しいところがあって、ダライラマの著書の邦訳でも「あなた自身の中にある」ではなく「あなた自身だ」と訳されていることがありました。(原著を読んでいないので、本当に訳者が誤訳したのかは分りませんが)ただ「あなた自身の中」と言われても、実際に座禅や瞑想をしたことがない人には、なかなか理解ができないことだと思いますので、このような誤訳が生じても仕方ないことなのかもしれません。

    結局、本来、釈迦が目指していた、ひとり一人、その人自身に合った思想の創作の支援のようなことは難しく非効率的なため、釈迦の死後は宗教団体の維持のため、大衆向けの仏教思想が発展していったという一面があるのでしょう。

    もちろん、お盆や仏壇の位牌などの先祖信仰は、インド仏教とは別のものなのでしょう。ただ、お盆の時期に親族で集まって仏壇の前で死者の思い出話をすることにも、大きな意味があるのかもしれません。

  28. ザウルス より:

    ポンぽこ太郎

    「それを言ったら、元も子もなくなってしまうじゃないですか」 という風に聞こえますね。

    それに対する回答は、一つ前の書き込みですでに書いています。

    「原始仏教とまったく相容れない “先祖崇拝” や “先祖供養” を中心に据えた日本の宗教の存在意義を否定しているのではありません。そういった日本の宗教をあたかも “仏陀の教え” であるかのように “仏教” と呼ぶのは、千五百年来の大嘘であるということです。」 「ブッダの権威と威光を利用した偽ブランド商法にすぎません。」 日本人は、このことを謙虚に自覚すべきでしょう。

  29. ポンぽこ太郎 より:

    Unknown

    ザウルス様

    ご返信ありがとうございます。

    確かにザウルスさんの仰る通り、いまの日本の仏教は、釈迦の時代の仏教は、まったくの別物なのでしょう。

    例えば浄土宗や浄土真宗の「念仏を唱えれば極楽浄土できる」という教えなども、本来の釈迦仏教とは、まったく関係のない別物と言えるでしょう。

    では、なぜ法然は、本来の仏教の教えからすると、あまりにも乱暴な解釈とも言える教えを広めていこうとしたのでしょうか。

    それは、世の中ザウルスさんのように、仏教の根本的な考え方をしっかりと理解できる人たちだけではないことを法然は良く知っていたからだと思うのです。むしろ理解できない人の方が多いのだろうとも思っていたのでしょう。ただ、そういう人たちも人生の中で様々な苦しみや多くの悩みを抱えながら生きているという事も法然は良く理解していたのだと思います。

    そして当時、仏教は貴族などの上流階級だけのものだったのを、法然は一人でも多くの一般の人たちを救うために仏教を使えないだろうかと考えた末に浄土宗の教えを広める決心をしたのだと思います。

    確かに、法然の考えは、釈迦の考えとまったく違います。でも「多くの人たちの魂の救済」という理念からすれば、一概に間違いとは言えないと思うのです。

    そして、お盆や位牌といった先祖崇拝という本来の仏教徒は異なる考えもまた、例えば、お盆の時期に灯籠を灯したり、みなで故人を偲ぶことが、ながい歴史の中で多くの人たちの心を癒してきたのだと思うのです。

    本当に害のある問題に対して、例えば、いまのコロナ騒ぎや、原発、危険な化学物質、CO2温暖化騒ぎなどの問題について「ウソつくな」と批判することは、けっして悪い事ではないと思うのですが、それほど害のない事について「フェイクだ」と強く批難するのも、いかがなものかと思うのです。

    また、テレビのニュースなどで、ニセブランド品の問題で大騒ぎしているのも、私にはよく理解できないのです。

    別に私は、ブランド品も、ニセブランド品も欲しいとは思いませんが。

    よろしければ、害のないウソには、もっと寛容になりましょう。

  30. ザウルス より:

    ポンぽこ太郎 さま

    「害のないウソには、もっと寛容になりましょう」などと、説教していますが、どうやら宗教は 「害のないウソ」 だと思っているようですね。歴史観、人間観があまりにも幼稚すぎませんか。居心地のいいウソにどっぷりと浸かって打算と惰性で生きるのが、あなたの宗教のようですが、その宗教は特に有害ですよ。

  31. 通りがかり より:

    ポンぽこ太郎さんの言いたいこと

    ポンぽこ太郎さんの言いたいことって、すごくわかるんですよ。すごくわかりやすいし、そうだよなーって自分も思っちゃうんです。でも、それって、自分がポンぽこ太郎さんの発想と同じだからなんでしょうね。

    でも、ザウルスさんがこの記事で言っていることは、自分の今までの考えをひっくり返すんですけど、でもスジが通っているんで否定できないんです。

  32. ヘムロック より:

    Unknown

    自分が騙されていたという事実を受け入れることは、それほどシンドイということではないでしょうか。年齢を重ねていればその抵抗感も増すのだと感じた次第です。以前に付き合っていた彼女とタイを訪れた際、現地の人に「ふざけて僧侶の身体に触れたりする事は絶対にしないでください」と強く言われました。日本の肉食妻帯の生臭坊主とは違って、本当に尊敬の対象で、合掌して挨拶をします。日本のいいところも沢山ありますが、お上に弱くて革命など一度も起きたことのない国というのは、メンタルが幼稚なのだろうと思った次第です。いつだって上手に騙されてきたのですね。ハァ〜。

  33. ザウルス より:

    ヘムロック さま

    慧眼なご指摘と思います。タイのお話、非常に興味深いですね。タイについてはザウルスは過去に動画を2本作っていますが、その紹介記事からぜひごらんください。

    「前タイ国王葬儀式典の “茶番” YouTube 「前タイ国王はニセ者だった」」            

    https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/0bd729ffb13f5c5d0212c44c4be5af0e

  34. starlight より:

    納得できます

    この時期に、とても有意義な記事です。

    日本仏教は、ブッダの教えそのものではありません。大乗仏教も、ブッダの教えそのものではありません。

    当然、般若心経はブッダが直接説いた思想ではありません。調べれば、専門家でなくても、簡単にわかることです。

    さらに、日本の多くの寺の僧侶は、出家僧ではないではなく、妻帯までします。日本では、僧侶であることが世襲であり、金銭収入に直接係わり… ブッダ、ダンマ、サンガの三宝に照らして、日本では商売となってしまった日本仏教は、区別すべきものです。

    多くの人が、ブッダの思想とは何か、この思想と、その歴史的、文化的変遷とを、学ぶきっかけとなればよいですね。

    生きとし生けるものが幸せでありますように。

  35. かかし より:

    仏教もビジネス

    統一教会の件で宗教が注目される昨今、カルトかどうかは別にしても現代の宗教とはビジネスに成り下がった。

    妻の実家ではお盆の時期になると当たり前のように坊さんがお教を読んでお布施を貰って帰る。

    祖母が亡くなった際、戒名代と称し、200万円要求したそうだがさすがに高すぎると50の戒名に変更させたらしい。

    冷静に考えれば死んだ人間に対し、高額な戒名やお墓は不要であり、先祖を敬う気持ちこそが大切。

  36. うに より:

    Unknown

    ザウルス様

    初めまして。いつも楽しく拝見させて頂いてます。

    人の心の弱さや、恐怖心に付け込んで集金するシステムはどこにでもあるのですね。

    最近は宗教2世について話題になってますが、一般的な仏教でも、一部?当てはまると考えています。

    私の祖父母はある仏教の檀家です。墓を継いでくれと言われていますが、檀家料はかなり高額で毎年かかります。親族が亡くなるたびに、戒名、お経代など、かなりの費用を支払っています。祖父母の周辺は熱心な信者なので、自由にすれば良いとは思いますが、私は信者でないため、高額で困っていると言うのが正直なところです。

    永代供養してもらって墓じまいすればいいですが、撤去料を請求されるかも?と考えたり

    全部無視すれば良いですが、おそらく先祖の皆様が無縁仏にる、罰当たり、祟られる、など親戚から総攻撃されます。

    正直、子孫に永久に費用がかかる負債を残す神経がわかりません。(祖先にはもちろん命を繋いでもらって感謝してます。しかし、それが未来に子孫を残していく足枷になるのは間違っていると考えます。お坊さんに高額な金銭を支払わなければ先祖供養ができない訳がない。)

    特定のカルトだけでなく、宗教○世問題は実はたくさんあるのだと思います。愚痴でした。

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