第1章 ダーウィンとハト ——– 大胆な外挿?
- ハトブームに沸く1850年代ロンドン
自然選択という言葉は、ダーウィンが自著『種の起源』(1859)で生物の進化を説明する用語として初めて使ったもので、すでに一世紀半余の歴史がある。ダーウィンは当時イギリスで流行していたハトの品種改良からこの語を思いついた。
1859年当時のイギリスでは、ハトの品種改良が社会全体を席巻していた。貧しい労働者階級から女王ヴィクトリアまで、あらゆる階層の人々が「fancy pigeons(観賞用ハト)」の飼育に夢中になっていた。
1850年代には「craze(熱狂)」と呼ばれるほどで、ロンドンだけでも多数のピジョンクラブが存在した。クラブでは定期的に品評会が開催され、Pouters、Fantails、Carriersなど、多様な品種が競い合った。
- ダーウィンもハトブームにはまる
ダーウィン自身もこのブームにはまっていた。1855年(『種の起源』出版の4年前)から自宅で本格的にハトの飼育を開始し、ロンドンのピジョンクラブに加入した。
『種の起源』第1章では、ハトの品種改良を人為選択の最重要例として詳述している。すべての品種がたった一種の岩鳩(Columba livia)から来ていることを強調し、「多様性が驚くほどだ」と記している。
出版社のレビューアーは、ダーウィンに「本はハトの観察だけに絞れ。みんなハトに興味があるんだから(Everybody is interested in pigeons.)」とアドバイスしたほどだった。この人気ぶりが、ダーウィンが「誰もが知っている人為選択の例」としてハトを活用できた大きな理由である。
- ダーウィンの壮大な論理的外挿?
当時、人間がハトを掛け合わせて多様な品種を作り出すことは常識であった。ダーウィンの大胆なところは、このハトのモデルを全自然に当てはめたことだ。
さまざまなハトの品種は「人間による選択」の結果である。ならば、自然界の多種多様な野生生物は「自然による選択」の結果ではないか——。
それまで人々は、教会によって自然界の多様性は神の選択、神の御業の結果だと思い込まされていた。そこへダーウィンが登場し、自然が長い時間をかけて選択した結果だと言ってのけたのである。
実に痛快な論理ではないか。学生時代に身の程知らずにも The Origin of Species を読みだした私は、この個所に唸ったものだ。
しかしこの外挿には、見過ごされがちな亀裂が走っている。外挿の論理が成立するためには、外挿元と外挿先で構造が対応していなければならない。人為選択の構造は「選択者(人間)+変異+選択基準」である。これを自然界に外挿したとき、変異は対応する——遺伝的突然変異として確かに存在する。しかし「選択者」に対応するものが、外挿先には存在しない。
ダーウィンはこの空白を「自然」という言葉で埋めた。「自然が選ぶ」——これは外挿ではなく、脚色による穴埋めである。人格的主体(人間)を非人格的な自然に置き換えることで、外挿が成立しているように見せた。これがダーウィンのトリックの壮大さであり、同時にその亀裂の在り処である。
| 構造要素 | 人為選択(外挿元) | → | 自然選択(外挿先) | 対応? |
| 変異 | 品種の変異 | → | 遺伝的突然変異 | ✓ |
| 選択者 | 人間 | →? | 自然? 『空白』 | ✗ |
| 選択基準 | 人間の好み・意図 | →? | 生存有利性? 『循環』 | △ |
| 結果 | 品種の多様性 | → | 種の多様性 | ✓ |
〔図表1〕ダーウィンの論理的外挿——外挿の成否 ✓ 対応する ✗ 対応しない(空白) △ 循環論法
人間の代わりに動作主体として自然自体を置くこの擬人化の論法は、非常にトリッキーであるが、ダーウィンはそんなことは考えもせずに書いていたに違いない。ダーウィンは、自然の多様性が生まれるのには人間や神の介入は不要で、自然が勝手にやってのけると愚直に考えたのである。
人間の言語——とりわけ「選択する」という他動詞——は、動作主体の存在を文法的に要求する。ダーウィンはその文法的要求に従って「自然」を主語の座に据えた。これは言語の脚色語法の罠に自ら踏み込む行為だったが、当時それを見抜ける者はほとんどいなかった。そして、21世紀になってもそのからくりはほとんど露見することがないままである。
4-2. “Natural”の歴史的重量——ロマン主義と産業革命
OED(オックスフォード英語辞典)初版は、natural の中核的定義をこう記している。
“Existing or present by nature; innate; not acquired.”
“By the power or operation of nature; without the aid of art.”
後半の定義が重要だ。”without the aid of art”——「技術(人工)の助けなしに」。ここで言う art とは芸術ではなく、人の技術・加工・作為を意味する。OED 初版において natural の対義語は artificial であり、art(人為)の介在しない状態こそが natural の本義だった。
しかしこの定義は、単なる中立的な語義記述ではない。ここには一つの価値判断が折り畳まれている。
ダーウィンが『種の起源』を出版した1859年のイギリスは、産業革命の爛熟期にあった。蒸気機関が山を貫き、工場の煙突が空を染め、かつての田園が炭鉱と織物工場に変わっていった。ウィリアム・ブレイクが「暗い悪魔のような工場(dark Satanic Mills)」と詩に記した光景が、現実のものとなっていた時代だ。
その反動として、イギリスのロマン主義は他のいかなる国よりも激しく「自然」への憧憬を燃え上がらせた。産業革命が世界に先駆けて起きたイギリスでは、「自然が機械と煙に飲み込まれる」光景を最初に目の当たりにしたがゆえに、自然を賛美する声がどこよりも切実になった。ワーズワースやコールリッジが湖水地方に魂の安らぎを見出し、「自然は神聖な癒やしの場だ」という観念が広く共有されていた。ルソーが説いた「自然に帰れ」の思想は、自然を最も急速に失いつつあったイギリスにおいて、最も痛切な響きを持った。

この文脈の中で、”Natural” は単なる形容詞ではなく、時代精神を濃厚に反映したキーワードだった。Natural であることは、人の手に汚されていないことであり、純粋であることであり、善いことだった。Artificial であることは、その反対——作為的で、不純で、胡散臭いことだった。
ダーウィンはこの空気の中で育ち、この空気の中で『種の起源』を書いた。彼が Natural と Selection を繋げたとき、火花が散ったに違いない。その Natural には少なくとも二つの意味が重なっていたはずだ。一つは「人為的ではない」——人間の意図が介在しない選択という当時の辞書的な意味。もう一つは、ロマン主義的な時代精神が付与した価値——「自然は善い」「自然の営みは正しい」という歴史的な含意だ。
Natural Selection という語が一世紀半以上にわたって繁栄したのは、その科学的正確さのゆえではない。この語が持つ二重の魅力——「人為の対立概念としての自然」という明快さと、「自然=善」というロマン主義的残響——が、英語という言語の文化的磁場に見事にはまり込んだからではないか。Artificial Selection(人為選択)との対比で Natural Selection を提示するというダーウィンの戦略は、読者の脳裏に即座にこの価値的対立を呼び起こした。人為は恣意的で不完全、自然は客観的で秩序正しい——そういう連想を引き連れて、この語は科学用語として世界に広まったのだ。
ここで一つの問いを立てておく。もしダーウィンがフランス人だったら、あるいは日本人だったら、Natural Selection という語は生まれていただろうか。英語の無生物主語構文が Nature selects という文を自然に生成するように、ロマン主義的自然観が “Natural” という形容詞に善の威光を授けるように——この語の誕生と繁栄は、19世紀ヴィクトリア朝英国という特定の言語・文化的磁場の産物だったのだ。”Natural” は最初から中立的な科学用語ではなかった。それは、産業革命への反動として醸成されたロマン主義的自然観を背負って、進化論の語彙に紛れ込んだのである。
- わかりやすさの代償——擬人化という罠
「自然選択 Natural Selection」という概念には、2つの問題が潜んでいた。
1)自然を擬人化している
2)「選択」という言葉自体が目的(目的語)を要求している
“Natural” の真意
Natural Selection の「Natural」は、ハトの例で自明とされていた人間の介入を意味する Artificial Selection の Artificial に対して、「Non-artificial(非人為)」の意味で Natural と言ったのではないか。たしかにその解釈は可能だ。
そうだとしたら、なぜ最初から Non-artificial Selection と言わなかったのか。おそらく、理由は、抽象的で分かりづらく、Natural と言った方が簡単でポジティブに聞こえるからだろう。現代の「合成(Artificial)は胡散臭く、天然(Natural)は信頼性がある」という「Natural 自然 に対する偏愛」こそ、むしろ産業革命の遺産だったのだ。
さて、Non-Artificial と言った限りでは、非人為と言っているだけで、動作主体の欄が空欄なだけである。つまり、Nature だの God だのが入らなくても論理的には成立するかのようだ。そして解釈次第では、問題点1)の擬人化の問題は起きないかのようだ。
ところが、実際はそうはいかない。
- 文法が明かす誘惑の根
問題点2)で指摘したように、「Selection 選択」という言葉自体が目的(目的語)を文法的に要求している。
select(選ぶ)という動詞は他動詞であり、文法的には英語でも日本語でも、主語と目的語を必要とする。受動態にしても、潜在的なSVOの構造は必然的に含意される。
例:He was selected as the best musician of the year. 彼はその年のベストミュージシャンに選ばれた。
たまたまと言うか、select(選ぶ)という他動詞は優れて能動的でポジティブな行為である。make(作る)、admire(賛美する)、like(好む)は同様に能動的でポジティブな意味がある。
一方、destroy(破壊する)、dislike(嫌う)、kill(殺す)には、能動的ではあってもポジティブではなく、ネガティブな意味がある。
しかし、select されるものは、どうしてもポジティブなものということにならざるを得ない。selected wines は選び抜かれた良いワインということになる。
さて、Natural Selection(自然選択)に立ち返ってみると、自然が良いものを選ぶ、もしくは、優れたものが自然に選ばれる、という意味が必然的に含まれることになる。
つまり、Selection(選択)という語を使う限り、より良いものが何らかの能動主体によって「選ばれる」ということにならざるを得ない。
- ダーウィンの後悔
ダーウィンは『種の起源』の出版後、「自然選択」という用語の擬人性を後悔していた。
出版翌年(1860年)から晩年にかけて、ダーウィンは複数の手紙で繰り返しこの後悔を表明した——「『自然選択』はまずい用語だった bad term」「この語は多くの人を欺く」「最初から書き直すなら別の語を使う」。これらの証言の全貌は第4章で詳しく論じる。
そして、ダーウィンの著書を読んだスペンサーの「Survival of the Fittest 最適者生存」を、「より正確だ」として、「Natural Selection 自然選択」の補助的な同義語として使い始めた。
ここで私は思うのだ。ダーウィンは自分の発見した進化の原理の哲学的な革命性の半分にも気づいていなかったのではないかと。だからこそ、スペンサーの影響で「Natural Selection 自然選択」よりもさらにポジティブで、帝国主義と植民地主義の正当化に理想的な「Survival of the Fittest 最適者生存」という公理に飛びついてしまったのではないかと。
ダーウィニズムの本質は「ポジティブな選択」ではなく、「ネガティブな排除」にこそある——これが私の主張である。
- ネガティブな読み替えが必要
進化論について長年、私は「自然選択」と「(最)適者生存」という基本概念はどちらも難点があると思ってきた。前者は「自然淘汰」、後者は「不適者淘汰」とどちらもネガティブに読み替えるのが論理的に整合的ではないか、という主張だ。
論理的整合性——ネガティブな表現のほうが現実的
「最適者生存」よりも「不適者淘汰」、「自然選択」よりも「自然淘汰」の方が、実際に起きている現象をより客観的に記述していないだろうか。
進化のメカニズムは、「優れたものを積極的に選ぶ」のではなく、「環境に合わないものが排除される」という消去法のプロセスである。ここには徹底した排除主義(Eliminationism)が貫いているのではないか。
生き残った個体は「最適」だから生き残ったのではなく、「致命的な欠陥がなかった」から生き残っただけだ。これは「合格」と「不合格」の違いに似ている。合格者全員が満点を取ったわけではなく、合格ラインを超えただけである。
なぜポジティブな表現が使われたのか
ダーウィンが「Natural Selection 自然選択」という言葉を使ったのは、人為選択(Artificial Selection)との対比を意図したからである。人間がより良い家畜や作物を「選ぶ」ように、自然も生物を「選ぶ」という、実に分かりやすい比喩だった。
しかし比喩にはリスクがある。人為選択には人間という「選択する主体」がいるが、自然選択には主体がいないはずなのだ。これは擬人化の罠ではないか。「自然選択」という用語を受け入れれば、自動的に「超越的な選択主体」、「天の審判者」の存在も受け入れることになるからくりだ。そして、作ったダーウィン自身が真っ先にその罠に引っかかった格好である。実際、「『自然選択』はまずい用語だったと思う」と当人が告白しているのだ。
ネガティブ表現の哲学的意義
ひるがえって、「淘汰 Elimination」という言葉は、方向性や意図や目的を含まない。これは進化が「改良」ではなく、単なる環境への不適応の排除の連続であることを正しく反映している。
Natural Selection というポジティブな論理構造は、選択する超越的な主体の存在を前提にしているが、ネガティブな論理構造 Natural Elimination ではそういった主体を必要としない。
- コノハムシが木の葉に似ている理由
コノハムシを例に挙げよう。一般の人々の直観に反して、コノハムシは体を木の葉に似せようとはしていない。それではどうしてあんなに木の葉にそっくりな体になったのか。
答えは単純だ。木の葉に似ていない個体が鳥などの捕食者に見つかって食べられてしまったからだ。つまり、鳥の目がヘタなソックリさんを見破って遺伝子プールから「排除」していった結果なのだ。それだけである。
しかし、幼稚園児はこの説明に決して満足しないだろう。幼稚園児だけではない。ほとんどの大人もだ。だから「コノハムシのカモフラージュ戦略」などと言い出さずにはいられないのだ。本当の自然界はそれほどまでに反ドラマ的、反物語的な世界なのだ。
進化の説明となる「選択」はどこにも起きていない
たとえば、現代進化生物学のジャーゴンである、いわゆる「選択圧」とは何だ。選んで拾い上げるのを圧力と言うのか。圧力とは、定義からして、破壊的な作用の一つだ。進化のプロセスに圧力があるとしたら生存圏から排除する圧力ではないか。つまり、ネガティブな作用である。
しかし、自然選択論者によれば、こうである。コノハムシが木の葉にそっくりになったのは、まず、木の葉に0%似ている個体群の中から木の葉に5%似ている個体が突然変異で出現して、選ばれる(おお、有望だ)。次に、その子孫から木の葉に10%似ている個体が出てきて、他の0~5%似ている個体群を差し置いて選ばれる(そうそう、その調子だ)。そして、木の葉に10%似ている個体の次の世代では、今度は15%似ている個体が出てきて、選ばれる(いいぞ、がんばれ)。こうしたわずかな差での「選択」が繰り返され、木の葉に似る DNAが木の葉ソックリさんの家系に蓄積する。そして、木の葉に70%似ている個体が当たり前になって来る(すごいぞ)。やがて、木の葉ソックリさんの家系は繁栄を極める。地元では生まれてくる個体のほとんどが木の葉ソックリさんの家系で、生まれてくるのは木の葉に90%以上似ている個体がほとんどになる(めでたし、めでたし)。これが「自然選択」の成功物語である。進化のこの紙芝居的説明に子供だけでなく、多くの人が納得してしまうのはなぜか。
ある意味で、非常にわかりやすい進化の説明ではなかろうか。「選択」によって進化を説明しようとすると、どうしてもこうならざるを得ない。「選択」とは文法的にも論理的にも必然的に選択をする動作主体の存在が前提となる。現代のネオダーウィニストは「選択圧」や「選択係数」や「自然選択」という用語を好む。しかし、進化という現象においては「選択」という行為や現象は実際にはどこにも起きていないのだ。
木の葉に似ていない個体が捕食者に見つかって食べられ、一方、木の葉に少し似ていて食べられなかった個体が気づかれずに子孫を残したという地味な事実の積み重ねがあるだけだ。ここに働いているのはネガティブで冷徹な「排除主義(Eliminationism)の原理」である。「選択」というポジティブな行為も現象も、進化の説明には本当はどこにも出番はなく、何の役にも立っていない。ダーウィンの後悔はこのことにつながるのだ。
- 言語と思考の歪み
進化の説明においてポジティブな表現(選ぶ、選ばれる、適者、生存、生き残る、生存競争)は、無意識のうちに私たちの思考を「成功と失敗の物語」に変換してしまう。
・進化を 改善、進歩、発展 と思わせる
・選択された者を 成功者、勝利者 と思わせる
・選択された者を 強くて、優れている と思わせる
・淘汰された者を 失敗者、敗北者 と思わせる
・淘汰された者を 弱くて、劣っている と思わせる
・進化を「成功と失敗の物語(適者生存)」「勝利と敗北の物語(生存競争)」 と思わせる
しかし実際には、恐竜の絶滅は恐竜の「劣等性」を示すものではなく、単に小惑星激突という劇的な環境変化が突然すぎて適応する時間が全然足りなかっただけだ。一方、ゴキブリが生き残ったのは別に「優秀」だからではなく、たまたまその環境変化に対して致命的な弱点があまりなかっただけである。
この問題は、人間社会の理解にも及ぶ。ポジティブで脚色的な「自然選択」をネガティブでより率直な「自然淘汰」と読み替えることは、謙虚さの回復でもある。私たちが存在しているのは、「晴れて選ばれたから」ではなく、「今のところまだ淘汰されていないだけ」という認識だ。
ところで、Natural Selectionのこの問題に最初に気づいた日本人がいる。明治の知識人・加藤弘之だ。次章ではその洞察とその結果を辿る。


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