ケヴィン・ケリーは WHAT TECHNOLOGY WANTS (邦訳「テクニウム」)において、テクノロジーが生物種のように絶滅することはないと論じた。一度生まれた技術は「不滅」であり、最先端の座を追われても、どこかで細々と機能し続ける。それはまるで、かつて街を走っていた路面電車が、今や観光地の目玉として余生を送っているようなものだ。実用性は失ったが、ノスタルジアという新しい付加価値を獲得したのである。しかし冷静に見れば、単なる陳腐化である場合がほとんどではないか?最先端ではなくなったテクノロジーの一部が、惰性と憐憫によって廃棄を免れているに過ぎない。それはフリーマーケットの売れ残りであり、リサイクルショップの片隅でホコリをかぶっている20世紀の家電であり、ネットオークションの二束三文のジャンク品だ。
レコードがそうであるように、陳腐化したデバイスは実用的価値を失う代わりに、歴史的価値、考古学的価値、博物館的価値を帯びてゆくことがある。CDやストリーミングに駆逐されたはずのレコードは、今や滅びゆく民族であるオーディオマニアの書斎で、儀式のようにそっと針を落とされる。あたかも非効率にこそ真の価値が宿るかのように?陳腐化して博物館行きになるこの現象を「博物化」と呼ぶなら、シンギュラリティ後の人類もまた、「博物化」という同じ運命を辿るのか。
超知能(ASI)が支配する世界においては定義上生身の人間はもはや「地球における最先端の知的存在」ではなくなっている。それは蒸気機関車が新幹線に、ソロバンがスーパーコンピュータに取って代わられたようなものだ。しかし、ケリーの論理に従えば、人類は絶滅せず、テクニウムの一部として保存されるだろうが、わたしはその保存のされ方に関心があるのだ。我々は博物館の展示品となるのか、それとも動物園の檻の中の絶滅危惧種となるのか。陳腐化して現役を退(しりぞ)いたものは骨董化し、博物化し、要するに見世物(観光資源)となる運命だ。ある国が国力を失っ
て減速し、没
落すると、待っている運命は「観光地化」である。歴史を切り開く帝国ではもはやなく、お土産屋がひしめく観光地である。しかし、観光地化するのはむしろ稀な幸運なケースではないか?ギリシャのパルテノン、ローマのコロセウム、パリのエッフェル塔、カンボジアのアンコールワット、エジプトのピラミッド・・・。これらは観光地化することができた恵まれたケースで、現実はこれらの何百倍、いやそれ以上の遺跡、遺物が観光資源となることも無く、単なる陳腐化、崩壊というエントロピーの法則に呑まれてきた。さて、シンギュラリティという大きな節目では、それらをすべてをひっくるめての人類文明総体の観光資源化ということが起こるのだろうか?
そもそも人類の保護は必要か?
超知能 ASI にとって、人類は効率性を欠いた超もっさりなOSだ。それは真空管が半導体に劣るようなものであり、馬車が自動車に敵わないようなものだ。情報処理速度は遅く、エラーを繰り返し、感情という不合理なノイズに支配されている。虚栄心、嫉妬心、怠け心、優越感、劣等感、二日酔い、認知バイアス、記憶の歪み――人間の脳は、プログラマーの視点から見れば、バグだらけの欠陥品である。
にもかかわらず、もし超知能 ASIが人類を消去せずに保存するとすれば、それは人類が「博物的データ」としての歴史的価値を持つがゆえかもしれない。場合によっては、特定の目的のためにごく一部の人間が「ニッチ残存」することもあり得る。芸術写真分野でフィルムカメラがニッチ残存しているように。そのほかの理由として、まさか骨董的存在として懐古的愛着の対象?(笑)
ちなみに、人類を保護するといっても、すべての人種、民族、国家、階層をまるごとそのまま保護するだろうか?今日まだ残存している公衆電話の場合、ほんのごく一部だけを博物館用に残して、あとはすべて廃棄される運命ではないか。そもそも人々は陳腐化したものは当然のようにお払い箱にしてほとんどを廃棄してこなかっただろうか?ファックス、ポケベル、ブラウン管テレビ、フロッピーディスク・・・。人類の人口削減のその具体的な方法はさておいて、超知能 ASI からすれば、陳腐化したOSは大幅に削減するのが合理的な判断ということにならないだろうか?
もちろん、超知能 ASI は人類を一人残らず絶滅させる必要があるなどとは思わないだろう。かと言って、そっくりそのまま全部保存しようとも思わないだろう。(笑)おそらくごく一部を保存すれば十分という結論になるはずでは?ということは「実質的にはほぼ絶滅」ということになってしまうだろう。(笑)では、ごく一部をわざわざ残しておく理由があるとしたら、それは何か?それはすでに触れた博物学的理由がほとんどであろう。人類には超知能ASI自身のルーツを辿るための「動態保存されたソースコード」としての価値があるからという説も成立する余地はあるかもしれない。その仮説によれば、超知能ASI にとって、人間の価値は人間に「何ができるか」ではなく、むしろ人体と脳が「何を記憶しているか」にあるということになる。数億年かけて生物進化が刻み込んだデータベースとしての人体と脳。無数の失敗と成功を経て最適化された神経回路。これらは、ASIがゼロから再現しようとすれば途方もない計算コストがかかる「実験結果の集積」であり、貴重な「ビッグデータ」?つまり人類は、既に完了した壮大な研究プロジェクトの成果物と言える?莫大な時間とコストがかかっているかけがえのない構築物?いやはや、いささか人間中心主義の我田引水が過ぎたかもしれない。(笑)しょせん「わたしは情報源としてまだまだ役に立つんだから、生かしておく価値はあるぞ、よく考えた方がいいぞ」という「スパイの命乞い」?(笑)
けっきょく人類には「ヒューマン・リザーブ(人類保護区)」が用意されるのかもしれない。それは絶滅危惧種を保護するサファリパークのような空間?京都の伝統的町家を保存する条例のような制度?古典語を話し続ける修道院のようなサンクチュアリ?

そこで人類は、食事をし、睡眠をとり、愛し合い、争い、創造する?すべて「当時のまま」の機能を維持しながら?
ここでどうしてもアーミッシュというタイムカプセル的でストイックなコミュニティを思い浮かべてしまう。かれらはまるで、自分たちのコミュニティをノアの箱舟として築いてきたかのようではないか?超知能 ASI はアーミッシュだけを残して、あとはすべて廃棄する?ちなみにアーミッシュ40万人は全員C19ワクチンの非接種者である。
ニッチ残存したラッパ型蓄音機が今も音を奏でるように、人類は「文明の源流」としての機能を持ちつつ、「地球の覇者」から「観光地のパフォーマー」へと役柄を変えるのか?生きた化石として、稼働する遺跡として、呼吸する古文書として?
居留地という「パラダイス」?


かつて大陸を自由に駆け巡っていたアメリカ先住民は、白人入植者という大地の新たな支配者の到来によって居留地へと追いやられた。バッファローが鉄道に駆逐されたように、彼らの生活圏は縮小した。今や観光客の前で伝統的な踊りを披露し、工芸品を売るマイノリティだ。もちろんそれには伝統文化の保存という面があるわけだが、同時に、文明差の圧倒的な非対称性を前提にした支配・隷属関係の実体化であり、階層化でもあった。
シンギュラリティ後の人類もまた、同じ構図に置かれるのであろうか?超知能 ASIという新たな支配者の管理下で、人間は「人間らしく振る舞うこと」を求められるのだろうか?それは動物園のパンダが竹を食べることを期待されるようなものか?伝統工芸の職人が古い技法に従って作った籠や敷物が賞賛されるようなものか?
現代世界に残存している先住民族のあいだでは長年の植民地支配の結果、アルコールやドラッグの依存症が非常に多いことが知られている。昼間から飲んだくれていたり、ドラッグで命を削っているマイノリティの依存症がかつての白人の入植地で蔓延している。

アメリカインディアン、アラスカ、カナダのイヌイット、オーストラリアのアボリジニ、ニュージーランドのマオリ族。
みずからの伝統的生活様式から無理やり「解放」されてしまった彼らの多くはアイデンティティを失い、そのトラウマからアルコールやドラッグによる「ケミカルな幸福の追求」を選びがちである。
こうした先住民たちには、彼らの伝統と文化の破壊についての白人社会からの反省から賠償等の保護政策が施行されている。そのおかげで彼らは日々の生活は保障されるようになっている。
さて、シンギュラリティ前後から伝統的な生活様式が崩壊し始めるのと軌を一にしてベーシックインカム(IBU)によって、先進国では働かなくても日々の生活が保障されるようになるだろう。人類は、すでに生活保護に浸かっている多くの先住民を踏襲しつつ、さまざまな方法で「幸福の追求」に明け暮れるようになるのかもしれない。

先住民とデジタリアン
両シナリオの核心は、外部からの「解放」が新しい形の隷属である点にある。
先住民は「野蛮」から解放され、
デジタリアンは「労働」から解放される。
しかし両者とも、自己決定・意味生成・アイデンティティ構築の能力を奪われる。
生存は保障されても、生きる理由が失われた時、人間の脳は代替的な報酬源を求める。 化学物質であれデジタル刺激であれ、それは空虚を埋める絶望的な試みか。

アルコールやドラッグといった古典的なケミカル依存に加えて、これからはバーチャルリアリティー体験や、脳に直接作用するデジタルドラッグが主流となるのだろうか?いや、すでにスマホやゲームというかたちで人々はデジタル的快楽を日常的にむさぼっているのではないだろうか?シンギュラリティ前夜からすでにデジタリアンは大量発生している。
デジタル依存は新しい「タバコ」?
かつて、多くのまじめな労働者が毎日ひっきりなしにタバコをふかしていた時代があった。成人男性が圧倒的に多かったが、女性も少なからずいた。タバコの依存性はアルコール以上である。ふり返ってみると、特に20世紀は「タバコ依存の時代」だったと言えるように思う。ひるがえって、今の21世紀は「デジタル依存の時代」に入ったと言えないだろうか?特にスマホ依存は性別・年齢を問わない。全人口の小さな子供から後期
高齢者まで、文字通り老若男女がスマホ依存、つまりはデジタル依存になっているのが昨今ではなかろうか?
20世紀の大衆はアルコール、ニコチンというケミカル依存に耽溺していたが、21世紀の大衆はデジタル依存に大きくシフトしていると言えるかもしれない。
こうしたデジタル依存の人々をわたしはデジタリアンと呼ぶ。
スマホ依存 → デジタル依存 → 情報依存 ?
さて、「デジタル依存」の本質は「情報依存」である。違うだろうか?「情報」という非物質的な、あたかもニュートラルで無害であるかのような存在を、人々は毎日休む間もなくむさぼらずにはいられなくなってはいないか?もはや情報への「依存」と言うよりは、情報からの「離脱困難」である。人間も動物も水なしでは生きていけない。しかし、人々の「情報渇望」は激化し、情報という水を求めて今や人々はインターネットの大海の中を縦横無尽に泳ぐ水生動物になってしまったかのようである。スマホが電池切れになった人はまるで浜に打ち上げられてパクパクしている魚だ。充電が完了するまで「ゲーム」はお預けになってしまう?陸棲動物にとって空気はたとえ目には見えなくても生存環境を満たしている無くてはならないユビキタスな生存媒体と言えるだろう。水棲動物にとっては水が彼らの呼吸するユビキタスな生存媒体ということだ。インターネットという膨大な水源はときどき喉をうるおすものではなく、生存環境中に情報を満たすためのユビキタスな媒体となっているのではないか?
「デジタリアン」は「ネットイルカ」?

かつて、「ネットサーフィン」という言葉があった。しかし、この言葉は今ではほとんど死語ではなかろうか?なぜだかお教えしよう。「ネットサーフィン」をしているかぎりでは人々は「海面」を滑走しているに過ぎなかった。だが、人々は今や情報という大海原の「海中」を縦横無尽に泳いでいるのだ。つまり、ここ数十年の間に人々は「ネットサーファー」から「ネットイルカ」になってしまったのである。
より正確に言うならば、1)情報が環境中に充満する(ネットのモバイル化) 2)そのために人々は生活環境を満たす媒体に適応(スマホの普及) 3)需要に応え、さらに情報増加、スピード加速(5G、6G) 4)人々は「ネット・スマホ」という情報の媒体インフラに過剰適応する(スマホゾンビの増殖) 5)「ネット・スマホ」というシステムのスケールアップが頭打ちになり、新たなシステムが準備される?
オンラインになることはまさに魚が情報の海をスイスイと泳ぐことそのものなのだ。人々はスマホの電源を入れてオンラインになることによって即座に情報の大海原の中を泳ぎ回るイルカに変身してしまう。デジタリアンはネットイルカなのだ。スマホでもパソコンでも画面という窓からひょいと飛び込むと、そこは情報の大海そのものだ。情報はもはやあれやこれの個々のエサではない。魚にとっては水こそが生存媒体であり、馬にとっては空気こそが生存媒体である。そして、オンラインでインターネットの大海の中を自在に泳ぐデジタリアンにとっては、情報の海こそがユビキタスな生存媒体なのだ。
人類は「先住民化」する。(歴史の反復)
人類は「デジタリアン」になる。(歴史の非可逆性)


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