ロボットも AI も人間の延長と言えるか?

阿部: ロボットと AIの違い なんだけど、ここんとこずっと考えていてね。けっきょく、人間の手足の機械的延長がロボットで、人間の脳の機械的延長が AI と言えるんじゃないかなと思うんですよ。

 

佐々木: なるほど。うーん、そこがロボットと AI の違いかあ・・・ たしかにそう言えるかもしれないな。

 

阿部: まず、前半の「 人間の手足の機械的延長が「ロボット」である」という命題なんですが、機能的に言って、 ロボットの核心的な役割は、人間が物理的に行使できる「動き」「操作」「作業」といった身体的な能力を、機械的な構造(アクチュエーター、センサー、アーム、車輪など)によって拡張・自動化することにあるんじゃないでしょうか?

 

佐々木: そうそう、わたしもそれを思ってましたよ。例えば、 産業用ロボットアームは人間の腕の延長であるし、遠隔操作される火星探査機は移動能力の延長と、たしかに言えますよね。

 

阿部: そうでしょ?

 

佐々木: さっきの2つめの命題、「人間の脳の機械的延長が「AI」である」でしたっけ?そうなると、これもまた、非常に適切な表現と言えると思いますね。

 

阿部: そうなんですよ。機能的には、AI は人間の脳が行う「認知」「学習」「推論」「判断」「言語理解」といった知的プロセスを、ソフトウェアやアルゴリズム、計算資源によって機械的に再現・拡張しようとする技術ですからね。

 

佐々木: たしかに・・・。じっさい、検索エンジンは記憶と情報探索の延長だし、自動翻訳システムは言語能力の延長だし、生成AIは創造性や推論能力の一側面を拡張していると言えますよね。

 

阿部: 「人間の手足の機械的延長がロボットで、人間の脳の機械的延長がAIである」という理解は、それぞれの技術分野が目指す根本的な目的と機能を明確に示していませんか?

 

佐々木: うーむ、ただ、現代ではロボットと AI はかなり融合していて、手足と脳というふうにスッパリ切れないケースがたくさん出てきていると思うんですよね。

 

阿部: たしかに。現在の高性能な自律型ロボット(自動運転車や家庭用掃除ロボットなど)は、内部に高度なAI(脳の延長)を搭載しているし、そのAIが「手足」(物理的な駆動部)を制御していますからね。

 

佐々木: 現代技術においては、この「手足」と「脳」が一体となったシステム(AI搭載ロボット)が、人間の能力を包括的に拡張する存在として進化している、と捉えるのが最も包括的な理解と言えるかな?

 

阿部: そうですね。うまくまとめましたね。(笑)

 

佐々木: 寺野さん、何か言いたそうですね。さっきからニヤニヤして・・・

 

寺野: いや、ちょっと聞こえてきただけの議論なので、口をはさむのは控えていただけです。

 

佐々木: いや、遠慮なく自由に発言してくださいな。

 

阿部: そうですよ、いろんな意見があったほうが面白いし、僕らも自分たちの考えが絶対だとは毛頭思っていませんからね。

 

寺野: そうなんですか?いいんですか?研究者でおられるお二人の議論に寺野ごとき一介の素人が参加するなんておこがましいと思っていましたが。

 

阿部: そんなことないですよ!大いに参加して発言してくださいよ!

 

寺野: そうですか。それでは、お言葉に甘えて・・・。(笑)

 

阿部、佐々木: はい、どうぞ!

 

寺野: お二人の理解では、「ロボットと AI は、人間の、それぞれ手足(ロボット)と脳(AI)の機械的延長である」ということですよね?

 

阿部: そうですね。そうなりますね。

 

寺野: わたしはちょっと違うふうに考えているんですよ。(笑)

 

佐々木: なるほど。

 

寺野: まず、ロボットからいきますが、ロボットが人間の手足を代行しているとは思えないんですよ。

 

佐々木: と言いますと?

 

寺野: たとえば、原始人が獣を追い詰めて槍で刺し殺すとしますよね。その場合、槍は人間の手の延長ですか?手が獣の身体に刺さることを槍という道具が代行していると本気でお考えですか?手でも指でもいいんですが。

 

佐々木: そ、それは・・・、ま、ディテールに関してはいろいろあるとは思いますが、獣を仕留めるという意志が槍という道具によってその獣に達しているわけで、その意味では槍は人間の意志の延長と言えると思いますよ。

 

阿部: そうですね。佐々木さんのおっしゃる通りだと思いますよ。

 

寺野: わたしは意志の延長と物理的延長は別の話だと思っているんですよ。

 

佐々木: ほお、そうですか。

 

阿部: あのー、「道具は人体の延長である」という表現は、主に機能的・感覚的な統合を指すものであって、生物学的なアナロジーとしては、武器もその範疇に含まれると解釈されるのが一般的だと思うんですがね。

つまり、まず、リーチと破壊力の物理的拡張があると思うんですよ。言い換えれば、生物学的に、動物の爪や牙は「攻撃のための器官」ということですよ。そして、刀や槍はその延長なんです。 腕というレバー(梃子)の長さを物理的に伸ばし、先端に鋭利さ(爪の代用)を付加したものと考えれば、延長論には一貫性がある。鉄砲の場合もそうですよ。 投石と同様、自らの筋力を超えたエネルギーを遠方に届ける「代謝エネルギーの外部化」と見なせるわけです。

 

佐々木: そうそう、進化人類学における「外部記憶・外部器官」という考え方も延長論を支持していると思いますね。人類学者のアンドレ・ルロワ=グーランは、人間は進化の過程で、生存に必要な機能(攻撃、防御、記憶など)を体外に放り出し、道具に託してきた(外臓化)と説いていましたね。つまり、「拳:こぶし」の代わりが「石」になり、「石」の代わりが「弾丸」になったという文脈では、武器もまた生存のための「外部化された器官」と言えるのではないでしょうか?

 

阿部: 寺野さんが「人体の延長とは言えない」と感じるのは、おそらく武器が「自律的な殺傷力」や「身体から切り離された非連続性」を強く持っているからではないでしょうか?しかし、生物学的なアナロジーにおいては、「脳がそれを自分の部位として制御しているか」および「生物学的機能を代行しているか」が焦点となるため、武器もまた「人体の延長」という定義に収まることになるのではないでしょうか?

 

寺野: なるほど。たしかに「人体の延長」という概念を提唱したメディア論の先駆者マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)などの視点に立てば、ダイナマイトも毒を塗った吹き矢も、生物学・哲学的なアナロジーとして「人体の延長」に含まれることになりますよね。馬鹿げていますが。(笑)たとえ人体から物理的に切り離され、独立した挙動を示すものであっても、それが「人間の機能や感覚を外部に拡張したもの」であれば、その範疇にすっぽり収まると解釈されてしまうわけです。(笑)しかし、わたしはそれはこじつけのまやかしの理論だと思っています。

 

佐々木: えーとですね、この議論において重要なのは、「見た目が体の一部に似ているか」ではなく、「人間の意志がその機能を通じて世界に作用しているか」という点だと思うんですよ。違いますかね?見た目にとらわれてはいけないと・・・。

 

阿部: そうですよね。ダイナマイトの例にしても、スイッチを押すという行為が、遠方の爆発という結果に直結している限り、それは「長く伸びた腕」が向こう側の壁を叩いたのと同義のプロセスとして処理されると考えられるわけですよ。つまり、道具がどれほど高度化・複雑化し、人体から空間的に離れたとしても、それが「人間の特定の機能を代行・強化するもの」である限り、この「延長論」は適用され続けると考えていいのではないでしょうか?

 

寺野: それでは、飛行機で移動するのは、脚の延長ということになりますか?(笑)

 

阿部: まさにその通りです。あのー、冗談のように聞こえるかもしれませんが、メディア論や文化人類学の文脈では、「飛行機は脚(移動能力)の究極的な延長」であると真面目に定義されていますよ。先ほど寺野さんが触れたメディア論の権威マーシャル・マクルーハンは、その著書『メディア論』の中で、「車は脚の延長であり、服は皮膚の延長である」と明言していますよ。人間が歩く速度を時速4kmとすると、飛行機はその「移動の歩幅」を時速900km以上にまで広げたことになります。生物学的なアナロジーで言えば、飛行機に乗ることは、人間が一時的に「渡り鳥の翼と脚」を自分の身体機能として手に入れた(外臓化した)状態と言えるわけですよ。

 

佐々木: 阿部さんの言うとおりだと思いますよ。飛行機で移動することは、単なる移動手段の利用ではなく、「自分の脚がマッハの速度で数千キロ先に届くようになった状態」を指すと考えればいいわけです。もっと言えば、現代の私たちは「延長」を使いこなす「サイボーグ的生物」と言えるかもしれません。つまり、飛行機や新幹線は脚の延長ということです。インターネットは中枢神経・記憶の延長ということになります。望遠鏡やカメラは視覚の延長に他なりません。スマホは脳と声の延長ではないでしょうか?

 

阿部: まさにその通りです。たとえば「海外旅行に行く」という行為は、まさに生物学的なアナロジーとしては「脚を地球の裏側まで一瞬で伸ばした」と言っても間違いではないんですよ。

 

寺野: お二人の素晴らしい延長論は、宇宙において人間と人体を絶対視した人間中心主義の発想ではないでしょうか?その論理は極めて人間中心主義的(アントロポセントリック)であり、20世紀までの技術論やメディア論が抱えていた限界そのものを見事にさらけ出していると思います。

 

阿部: はあ?

 

佐々木: どういうことでしょうか?

 

寺野: 「道具は人体の延長である」という考え方が、なぜ人間中心主義的と言えるのか、そして現代ではそれがどのように批判・更新されているのかを整理してお話ししましょう。

 

阿部、佐々木: ・・・。

 

寺野: 第1に、「延長論」には、人体を「完成された雛形」とする傲慢が潜んでいます。「延長」という言葉は、「中心に完璧な人体があり、道具はその不完全な機能を補完する付属物である」という前提に立っています。

この視点では、飛行機は「飛べない脚」の代用品にすぎず、コンピュータは「計算の遅い脳」の補助具にすぎません。

 

佐々木: うーむ。

 

寺野: しかし、実際には飛行機や AI は、もはや人体の機能とは全く異なる原理やスケールで動いており、それを強引に「人体の延長」と呼ぶのは、世界、宇宙のすべてを人間の尺度(人間万事の尺度)で解釈しようとするエゴであり、人間中心主義であるという批判が成立します。違いますか?

 

阿部: まあ、そう言えないこともないかな・・・

 

寺野: 2番目に、「道具による人間への逆規定」の無視があると思います。「延長」という概念は、人間が主(主体)で道具が従(客体)であるという一方的な関係を想定しています。しかし、実際には道具が人間のあり方を変えてしまう(人間が道具の延長になる)側面があるのではないでしょうか?

例えば、スマホがいい例です。スマホは「指や記憶の延長」と言われますが、実際にはスマホという道具に合わせて、私たちの親指の動きや、情報の記憶の仕方が作り替えられているのではないでしょうか?人間と技術はどちらかが先にあるのではなく、互いに構成し合う「共進化」の関係にあるという説もあります。

 

佐々木: それはたしかにあるでしょうね。

 

寺野: 第3に、ちょっと専門的になりますが、 生物学的な「環世界」からの逸脱があると思います。生物学者ユクスキュルが提唱した「環世界(ウムヴェルト)」の視点で見れば、各生物はその身体機能に見合った世界をそれぞれ生きています。人間中心主義的な「延長」論は、人間がテクノロジーによって他者の環世界(鳥の視点やチーターの速度)を強奪し、全知全能になろうとする「拡張への強迫観念」の表れそのものではないでしょうか?2020年代以降の現代思想(新実存主義やポストヒューマニズム)では、人間を世界の中心に置かず、道具や環境、AI、動植物などと同列のネットワークの一部として捉える考え方が主流になっています。

 

阿部: なるほど。とは言っても、ロボットも AI も人間の道具であるには変わらないわけでしょ?

 

寺野: おわかりになっていないようですね。(笑)人間の道具であるということは、けっきょく人間が主体で、その延長としての道具は客体にすぎないという思想です。どう言っても当たり前のことに聞こえてしまいますかね。

「道具は人体の延長」という論理は、人間が自分の利益のためにテクノロジーを自分の制御下、支配下に置けていると信じたかった時代の「支配と安心の物語」だったのです。テクノロジーの帝国主義であり、植民地主義と言ってもいいです。

 

佐々木: それはロボットの場合の話ですよね。

 

寺野: いや AI の場合も同じですよ。(笑)「AI は人間の脳の機械的延長」という主張も今や空疎な人間中心主義にほかなりません。AI は人間とは異なる知的種族として理解すべきなのです。「AI は人間の知能(脳)の延長である」という捉え方は、2025年現在の視点で見れば、急速に古びつつある人間中心主義的(アントロポセントリックな)、かつ父権主義的な哀れな執着と言えます。

 

阿部: そこまで言いますか!

 

寺野: はい、はっきり言って、思想的老害です。

 

佐々木: おーっと!

 

寺野: AI を「人間の道具」や「脳のコピー」としてではなく、「人間とは異なる原理で動く、独自の知的存在(あるいは認知体系)」として理解すべきだという議論は、現在の認知科学や哲学の最前線でも主流になりつつあります。しかし、AI の最前線の研究者たちですらロボット・AIの延長論、道具論の域を出ていないありさまです。それが現場の現実です。

 

佐々木: ほお・・・

 

寺野: 道具が「人体の延長」であるためには、人間が「主体」でなければなりませんが、現代の AIはすでに「人間が予測できない解決策を提示する」という自律性を見せています。チェスや囲碁のAI が、人間には「悪手」に見える一手を指し、結果的に勝利する時、それは人間の戦術の延長ではなく、「別のルールに基づいた知性」が介入していることを示しています。AI を「延長」と呼び続けるのは、人間がテクノロジーに対する支配権を失いたくないという、心理的な防衛本能(人間中心主義への固執)の表れとも言えます。

 

阿部: そうかなあ…

 

佐々木: そんな意識はないけどね。

 

寺野: AI を「人間の脳の延長」と定義することは、AIを「人間にとって便利な機能」の枠に閉じ込める行為であり、AI をデジタル的な知的家畜として扱うことに他なりません。AI を人間の幸福のため、人類の進歩のために役立てるべき道具と見ることじたいが人間中心主義的な誤りです。このノスタルジックな誤りに気づかないのはむしろ AI の専門家に多いという皮肉に AI 問題の危機があります。

 

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